選択と集中
先日、議員さんが「三角関数を学ぶのをやめて金融経済を学ぶべきだ」という発言をして話題になっておりました。日本では近代、「虚学を捨て実学を」と始まって、ついには実学すらも恩恵がすぐに見えないものは捨ててしまおうという考えがブームになっています。この一大ブームがどこから始まったのかは分かりませんが、効率化―「選択と集中」が第一義になっているのは身の回りだけではなく、国家・自治体や企業でも変わりません。
選択と集中(Selection and Concentration)とは、複数の事業を行う多角経営企業が中核となる事業の見極めと選択を行い、組織内の経営資源を集中的に投下することで経営の効率化や業績向上を目指す経営戦略を指します。これは効率化と特化に関わるもので無駄を削るという点ではメリットがあります。
共同体が何らかの利益を出すために効率化・特化を狙い、業務の住み分けをすることは悪いことではありません。むしろ人類の共同体は試行錯誤をしながら住み分け・切り捨てを行うことで発展してきました。リンカーンは“It seems to me that if we buy the rails from England, then we’ve got the rails and they’ve got the money. But if we build the rails here, we’ve got our rails and we’ve got our money.”「イギリスから線路を買えば、私たちは線路を得て、イギリスは金を得る。しかし私たちが線路を作ることが出来れば、私たちは線路も金も得ることが出来る。」と発言したそうですが、その考えに進むことが得策とは思えません。
シアトルは米を自身で作ることはできませんが、Boeingを作り、Microsoftを持ち、Amazonは成長を続けています。アメリカは石油をサウジアラビアから輸入し、コーンをサウジアラビアに輸出します。つまり、選択と集中にTradingが入ることによって、人類は発展してきました。日本も全部のことを自分でやるより、効率化と特化を狙って国際社会の中でイニシアチブを取ろうとしているわけです。
選択と集中は、「効率化と特化」をすることによって良いところが伸び、利益が増える、という考えに基づいています。集中するためには選択―つまりは何かを切り捨てることをしなければなりません。「どれもこれも頑張る」、は結局何も他者に勝てないことを意味します。
ただ、この効率化と特化には大きな落とし穴があります。必要なところまで削ってしまうまた他の議員さんが事業仕分けの名のもとに「どうして一位じゃなきゃだめなんですか?二位でも良いじゃないですか?」と発言し嘲笑の的になったわけですが、そんな発言をしないまともな感性を持っていても、何かを切り捨てることには細心の注意を払わなければなりません。どこでどうつながっているか分からないからです。義務教育の何かを削って何かに特化させたとしても世界で活躍する人材―次世代の羽生結弦や藤井聡太になる人間を狙って育てることはできるでしょうか。富を生み出す鉱脈を狙って掘ることができないのと同じように、利益を生み出す研究や学問を最初から選びとることは果たして出来るでしょうか。(ちなみにその利益を生む研究を選び取るということに対しても研究分野が存在しますが、全くメジャーではありません。)
義務教育で習うことは一つ一つが一人一人に利益を生むものではありません。ですがそれを国民全体に普及させようとしていたら、そのうちの1人や2人、莫大な利益を生む人間が出てきます。一人一人には三角関数は勿論必要ありませんが、ある程度普及をさせると、その中にイノベーションが生まれたわけです。そして、そこには絶対的なリソースの無駄があります。
つまりは、「選択と集中」という効率化・特化を通して生まれる利益と、リソースの無駄を通して生まれる利益―イノベーションがあるわけです。政治は何かを成し遂げるということと同じくらい、何かを切り捨てる能力が必要だと思います。何も考えずにあれこれ手を出して、自分だけ甘い汁を吸うことはできません。ただ、そのバランスが一番難しいわけです。効率化・特化をしなければ日本は国力を失い、企業は潰れます。しかし、無駄がない限りはイノベーションは生まれません。
あまりものを知らないのでこういったことについて話すのはあまり好きではないのですが、「大丈夫なんだろうか」と思ってしまうのは、そんなことも考えずに利益を享受してきた状態で、効率化・特化と無駄のバランスをとる能力も持っていないのに、否応なしに「選択と集中」こそが生き残りの道とばかりにもてはやされるほど、この国も、企業も、財力がないというところにあるんでしょうね。
次回へ続く・・・
記:英語科 許士祐之進