古典文法を何のために勉強するのか、わからない。
古文の先生は文法、文法と騒いで、やれ「かきくくけけ」だの、願望の終助詞「なむ」だの、「せ○きししか○」だのと意味不明の呪文を覚えろ、覚えろという。けれども、実際の出題では文法問題なんか出たとしても一問くらいでせいぜい3点か、4点くらい。そんなことをするくらいなら本文の内容を理解する練習をしたほうが、点数も高いし、出題も多いから、よっぽど割がいい、そのためには、古文単語をひたすら覚えるのが近道だ、と思ったことはありませんか?
実は古文の先生は文法問題を解くために、文法、文法といっているわけではありません。文章の理解をするのに最短距離だから文法の練習をするわけで、内容理解の一番簡単な方法が文法です。もちろん文法の練習をすれば、文法問題も解けるから、それはそれでついでに得点するとよいです。不思議ですね。英語のネイティブはとくに英文法なんか考えずに英語を読み書きするし、現代日本語のネイティブは現代語文法なんか意識せずに現代日本語を操っているのに、なぜ文法なんかが必要なのでしょう?これについていうと、ネイティブというのは、毎日、毎日、生活の必要に迫られて十数時間もその言葉を練習し、まちがえば、訂正をせまられ、それを十数年以上くりかえしているから、とくに法則を意識せずに使えます。けれど、普段は使わない古語をたった一、二年で習得するということになると、そうはいきません。そのための秘訣が古典文法だ、ということになります。
さて、古文の文法とは要するに助詞、助動詞とその使い方がわかるということが大半です。例えば、次の三文を訳してみてください。
1 花咲かなむ。
2 花咲きなむ。
3 花咲くなむ。
うまく訳せたでしょうか?同じ、「花」と「咲く」と「なむ」でただ「咲く」の活用形がちがうだけのようですね。文法を覚えた人なら、1は「咲か」で未然形に接続しているから、「なむ」は「他への願望の終助詞」で、だから訳は「桜の花が咲いてほしい」とわかります。同様に2は、「咲き」で連用形に接続しているから、「な」は強意の助動詞「ぬ」の未然形、未然形のあとの「む」は推量の助動詞「む」の終止形とわかり、訳は「桜の花がきっと咲くだろう」となります。さらに3の「咲く」は連体形、だから「なむ」は強意の係助詞「なむ」で、係助詞で「。」だから、文末の結びは省略されていて、おそらく「すばらしい」「うつくしい」あたりであろうと推測できます。よって、訳は「桜の花が咲くのはなんとすばらしい」となります。
文法を理解するとは文の意味を理解すること、現代語訳ができることと直結しているのが理解できたでしょうか。
記:国語科主任 佐谷健児