港式鴛鴦 (Hong Kong Style Yuanyang)

 発売されたばかりの中島みゆきのアルバム「寒水魚」をウォークマンで繰り返し聴いているうちに香港啓徳空港に到着した。格安航空で来たので、不便なことに着いたのは深夜だった。日付はとうに替わっている。
さて、これから泊まる場所を探さなければいけない。寝袋はあるから野宿でもいいのだけど、できるならベッドに横になりたい。といっても安宿にしか宿泊できないけれど。
 実は安く泊まれるうってつけの場所がある。大学の寮に行って、空いている部屋に泊めてもらうのだ。空き部屋がなければ、学生の部屋に泊めてもらえばいい。
 そうやって学生寮を利用してマレーシアでもタイでも節約しながら旅行を続けることができた。どちらの国でも、日本から来た大学生だと言えば快く受け入れてくれた。
 アルバムバージョンの「悪女」を口ずさみながらタクシー乗り場へ向かう。公共交通機関はもう動いていないので、料金の高い(しかも深夜料金だ)タクシーもやむをえない。
 いかにもタクシー運転手というように制帽を被り、白手袋をした、中年のおじさん運転手がぼくを迎えてくれた。
“Will you take me to the dormitory of Hong Kong University?”(「香港大学の学生寮までお願いします」)
“A?”
「あ?」のあと、運転手のおじさんは早口の大声であれこれ言ってきた。香港の人が話しているから広東語には違いない。でも、このおじさんは一体なにを一生懸命にしゃべっているのだ。こちらこそ「あ?」と問いたい。
“Dormitory, Hong Kong University”
 ぼくはひとつひとつをはっきり区切って発音した。
“A?”
 どうやら、英語がわからないようだ。おかしいな。香港はイギリス領だから英語が通じるはずなのに。でも、今はそんなことよりも何とかして香港大学の寮に辿り着かなければならない。幸いにもここは漢字文化圏だ。ぼくはノートとボールペンを取り出して、
「香港大学 学生寮」と書いた。
 おじさんは制帽の位置を直しながら「ハ、ハア、ア?」と唸った。そして再び早口の広東語で何やら訴えだした。どうやら「学生寮」では通じないようだ。
 ぼくは「寮」の一文字をぐるぐると丸で囲む。もう一度大きく「寮」と書いてみる。二度同じ字を書くと、本当にこの字で正しいかどうか自信がなくなる。自分が漢字を書き間違えているから通じないのかもしれない。
 おじさんはため息をつき首を横に振りながら、また何やらしゃべりだした。
 そうだ、と思いついて「寄宿舎」と書いてみた。
 おじさんは短く叫ぶと、ぼくの手からペンを取り上げ、ノートに書かれた「寄宿舎」の文字のうち「宿舎」をぐるぐると丸で囲んだ。
「宿舎」かあ。ちょっと違うような気もするが、広東語では学生寮をそう言うのかも知れない。いずれにしても、香港大学まで行くことを最優先しよう。そこからは何とかなるはずだ。
 ぼくは「香港大学」の四文字に何重にも下線を引いて「OK?」と尋ねた。おじさんは満面に笑みを浮かべて、耳が痛くなるほどの大きな声で答えた。「おっとガッテン承知の助、おっちゃんにまかせろ」とでも言ったのかもしれない。
 おじさんは運転中もひっきりなしに話した。ときおり(運転中にもかかわらず)後ろを振り返って相槌を求めるようにうなずいてくる。一体どういうつもりなのだろう。ぼくが広東語をまったく理解していないことは火を見るよりも明らかなのに。
 おじさんの話は終わらない。ひっきりなしにしゃべっている。息継ぎをしているのかさえも怪しい。ぼくは頭の中でおじさんの言葉を同時通訳してみることにした。広東語から日本語への人生初の同時通訳だ。よおい、スタート。
「英語がわからなくてごめんな。おっちゃんはな、中学までしか出ていないんだ。しかも、授業はほとんど広東語だった。本当は英語で勉強しなければいけないんだけど、できの悪い生徒が集まった地域で、先生たちも面倒くさかったんだろうな。みんながわかる広東語で全部説明してくれた。
でも、考えてみれば、それが当然だろう。みんな、ふだんは広東語を話している。なんで学校でだけ英語を使わないといけないんだ。ほんの一握りの香港人だけが仕事をするうえで英語が必要になる。エリートって人たちだな。でも、大半の人たちは広東語で生活をしているんだ。
おっちゃんも広東語だけでタクシーの仕事をしている。新聞だって広東語のものしか読まない。テレビもラジオも広東語だけ。香港では広東語ができれば充分なんだよ。
学校では、おエライさんの視察が入るときだけ英語を使ってたんだけど、先生たちの英語もひどいものだったな。広東語訛り丸出しの英語だ。しかも、なかなか言いたいことが言えない。そりゃあ、そうだろう、外国語なんだからな。
もちろん、生徒たちはまるでできない。アイラブユーぐらいしか日常では使わないからな。ははは。そういうことで、おっちゃんは英語がまったくわからない。(運転中なのに後ろを振り返って)ごめんな。赦してやってくれ(と手を合わせる)」
 なんてことをくどくど謝っているに違いないと、ぼくは勝手に想像した。想像するしかないじゃないか。ぼくが広東語をまったく理解しないとわかっているはずなのに話しかけてくるのだ。暇つぶしにくだらない想像をするよりない。
 それにしても、理解できない外国語はなんて魔訶不思議な響きをするんだろう。妙ちくりんな音の連続だ。よくそんなもので意思疎通ができるものだと思う。
もちろん、日本語がわからない人にとっては、日本語も奇妙な音のつながりとして聞こえているはずだ。なんだ、この言語は母音がやたら多いな、よくこれで話が通じるものだ、なんて思われながら。
「山田長政はバナナがわからなかった。あらあら、馬鹿だな。ははは」(Yamada Nagamasa wa banana ga wakaranakatta. Ara ara, baka dana. Hahaha.) なんて全部ア段の音でできている。つまり母音はaしか出てこない。それこそ「あ?」と呆れられそうだ。そんな奇妙奇天烈な言語があるのかと。
「ヤッブンヤン?」
 突然、大きな声でおじさんは訊いてきた。
 ヤッブンヤン? これは知っているぞ。飛行機のなかで読んだガイドブックの「60秒でできる広東語会話」のなかにあった。ヤッブンヤンとは確か日本人という意味だ。
「ンゴォー ハイ ヤッブンヤン」(我係日本人)とぼくが答えると、
「ヤッブンヤン? ヤッブンヤン、ヤッブンヤン。ははは、ヤッブンヤン」と、おじさんはヤッブンヤンと連呼しながらご機嫌だった。いったい何がそんなに楽しいのだろう。まさか生まれて初めて目にしたヤッブンヤンでもなかろう。
それから、おじさんは完全に後ろ向きになり、右手の人差し指で自分をさして、
「ンゴォー ハイ ヒョンゴンヤン。わははははは」と大爆笑した。
 そうだった、思い出したぞ。香港はヒョンゴンというのだった。わははは。それにしても、深夜でクルマがほとんど走ってなくて本当に助かった。

 学生寮らしき建物に着いた。香港大学の「宿舎」だ。
 深夜1時すぎだというのに、まだ明かりが点いている窓がいくつもある。香港大学といえば、優秀な学生が集まる大学だ。夜中まで勉強している学生も多いのだろう。講義はすべて英語だろうから二重に大変なのに違いない。新聞だって英語で読んでいるはずだ。
明かりが点いている部屋のなかには、勉強ではなくて酒盛りをしているグループもあるかもしれない。もしあれば喜んで加わりたい。タイの学生たちとは、シンハービールやメコンウイスキーで大いに盛り上がったものだ。
 予想通り玄関には鍵が掛けられていて、中には入れなかった。今晩の宿泊者受付は終了しましたということか。仕方がない。まだ起きている学生と直接交渉しよう。室内で寝られるなら床でもまったく構わない。節約旅行の必需品である寝袋をちゃんと用意してある。
 “Hello. Anybody there? ” (「ハロー、誰かいる?」)
 明かりの点いている窓に向かって叫んでみた。ついでに「ンゴォー ハイ ヤッブンヤン」とも言ってみた。
 二階のカーテンが揺れ、窓が開けられ、ひとりの学生が顔を出した。トンボメガネをかけた、髪の長い……女子学生だった。なんということだ。ここは女子寮じゃないか。
「しぃぃ。アナタ、うるさいはダメですよ。アナタ、そこ待つ。アナタ、そこ動くはダメですよ」
 日本語専攻の学生なのだろう。さすが、香港大学の学生だ。何年生かわからないけれど、熱心に勉強しているに違いない。きちんと日本語で意思疎通がとれている。
「こんばんは。ワタシの名前はヘレンちゃんです」
 玄関から出てきた学生はそう言うと深々とお辞儀をした。
 ぼくも慌ててお辞儀を返しながら「ンゴォー ハイ しぶや すぐる。ンゴォー ハイ ヤッブンヤン」と挨拶をした。
「アナタ、ワタシすぐるさん言うはダメですか?」
「いいですよ。すぐるさんと呼んでください」
「すぐるさん、ワタシの名前、忘れるはダメですよ」
「ちゃんと覚えてるよ。ヘレンちゃん、でしょう」
「ピンポン、たっきゅうびんです。しかし、すぐるさん、ヘレン呼ぶはダメですか?」
「じゃあ、ヘレンと呼びすてにするね、ヘレンちゃん。ははは」
「すぐるさん、ちゃんはダメですよ。ふふふ」
 それがヘレンちゃんとの出会いだった。
 ヘレンちゃんは「すぐるさん、ワタシよる歩くはダメですよ」と言いながらも男子寮まで連れて行ってくれた。早歩きで10分もかかるほど遠かった。そして知り合いの男子学生を叩き起こし、寮内に入れてもらった。
それにしても、ヘレンちゃんは広東語を話す時と日本語を話す時とでは人が変ってしまう。まったくの別人になってしまうのだ。日本語の時は、かよわい、おしとやかな声と動作をしているのに、広東語の時は、ふてぶてしいおばさんのようになる。声も大きければ、態度もでかい。ふふふ、ではなく、ガハハと笑う。
 いずれにしても、ヘレンちゃんのおかげで、ぼくは一泊200円でゲストルームに泊まれることになった。ゲストルームといっても野戦病院みたいにベッドが二十ほどずらりと並べられている殺風景な部屋だ。トイレとシャワーは寮生たちと共同で使うらしい。
 その夜、ゲストルームに泊まるのはぼくだけだった。真ん中のベッドを選ぼうとすると、
「すぐるさん、そこダメですよ」とヘレンちゃんが言った。「すぐるさん、あのベッド、ダメですか?」
「どうして、端っこのベッド?」
「すぐるさん、あのベッド。ワタシ、このベッド、ダメですか?」
「ここに泊まっていくの?」
「ピンポン、たっきゅうびんです。ワタシ、ここに寝るはダメですか?」
 女子寮まで送っていきたいけど、往復で20分もかかってしまう。おまけに、一人で男子寮まで戻ってこられる自信はない。ぼくは極度の方向音痴なのだ。
 ということで、端と端に離れて、ぼくとヘレンちゃんは同じ部屋で眠ることになった。
「すぐるさん、ワタシのベッド、来るはダメですよ」
「ピンポン、たっきゅうびんです。おやすみ」
 本当は「ンゴォー ハイ ヤッブンヤン」と冗談で言いたかった。ぼくは日本人で紳士だからそんなことはしないよ、という意味を込めて。けれど、まったく逆に取られて警戒される可能性もある。
日本の敗戦から37年経った、この1982年においても、まだ日本人に対して悪い印象を持っている中華系の人は多いと聞く。ヘレンちゃんだって家族や親類の中で日本軍の犠牲になった人がいないとは限らない。
 あれこれ考えていると、ヘレンちゃんのいびきが聞こえてきた。たぶん広東語で夢を見ているのだろう。豪快なおばさんと化しているのだ。

 ぼくはそのまま学生寮にあるゲストルームに2週間泊まり続けた。翌日から次々に世界じゅうからの学生が泊まりにきた。もちろん、ヘレンちゃんは女子寮の自分の部屋に帰っていった。それでも、毎日のように香港のさまざまな場所を案内してくれた。
「大学の講義を休んでだいじょうぶなの?」
「ワタシ、センセーに言いました。ニッポン人学生に香港見せるはダメですか? センセー言いました。ニッポン人学生とワタシ、日本語話すはいいこと。大学の勉強よりいいこと」
 なるほど、そういうことならヘレンちゃんと一緒の時は日本語だけで話そう。どうしても伝わらなかった時だけ英語に切り替えればいい。
「ワタシ、いっしょにいるはダメですか?」
「もちろん、いいよ。ぼくもうれしい。ヒョンゴンのことをたくさん教えて」
 ヘレンちゃんは香港観光のぼく専用のガイドになってくれた。
 香港島でいちばん高い山、標高552mのビクトリア=ピークに夜空を見上げながら登った。そこから世界三大夜景のひとつが見渡せる。ビクトリア=ハーバーに沿った煌びやかな香港島のビル群を見下ろしながら、ヘレンちゃんはこう言うのだった。
「デンキたくさんたくさん使うはダメですね」
 九龍(カオルーン)にあるナイトマーケット廟街(テンプルストリート)夜市もおもしろかった。ここは海賊版カセットや偽物ブランドにあふれている。ビリージョエルならぬ「ビリージョー」のカセットやら「VKK」のファスナー付きの服があり「adidos」のスニーカーが売られていた。「SELKO」の時計は千円もしないで買えた。
そこは香港のB級グルメを楽しめる夜市でもあって、炒麺の「チーヤウファン=チャウミン」はぼくのお気に入りになった。ぼくは魚介類や卵など具材をふんだんに使った炒麺を注文したけれど、ヘレンちゃんはモヤシとネギだけのシンプルなものを好んで食べた。二度目にはぼくもヘレンちゃんの真似をしてシンプルな炒麺を食べてみると、これが質素ながらも、特製の醤油の味付けが感動的に旨くクセになってしまった。
 飲茶にも二人で行った。お茶とともに點心(ディムサム)を食べるのだが、なかでも燒賣(シウマイ)は最高だった。あんにエビやカニ肉が入っており、カニの卵がトッピングされている。
お茶をつがれた時、茶碗の手前側のテーブルをとんとんと人差し指で叩くのが礼儀とされているらしいけれど、どういう意味なのかヘレンちゃんに尋ねると、
「おじいさんとおばあさんのおじいさんとおばあさん、テーブルコツコツしました。なぜですか、ワタシわからない。ダメですね」とのことだった。
 ヘレンちゃんの日本語を聞いていると、感心を通り越して感動すら覚えてしまう。自分の知っている限られた語彙でしっかりと意思疎通が図れている。さらに、ネイティブのぼくが話す日本語をおおかた聴き取って理解しているのがすごい。
「話す」ことよりも「聴く」ことのほうが遥かに大切だとわかっているのだ。だから聴き取りの練習をたくさん積んだに違いない。
 どんなガイドブックにも掲載されている水上レストランの「珍寶王國(Jumbo Kingdom)」にも行ってみたけれど、ぼくもヘレンちゃんも屋台で食べる庶民の味が好きだった。
たとえば車仔麺(チェージャイミン)。これは魚団子や野菜などお好みで具材が選べる香港風ラーメンだ。ついつい具材をあれこれと欲張って(チャーシューに海老にツミレにワンタン)乗せてしまうけれど「香港の人、好きはダメですか?」とヘレンちゃんが言うように、麺とスープの味を楽しむべくシンプルに具材を選んだほうがいい。なにしろスープが抜群に旨いのだ。
 夜だけでなく、昼の観光もヘレンちゃんは付き合ってくれた。龍脊(ドラゴンズバック)のハイキングは、人口の密集する香港にも自然豊かな場所があることを教えてくれた。丘の頂上を歩く道は、名前どおりまるで龍の背中を歩いているかのようだった。標高284mの山頂付近からは香港島南部から海岸線にかけての見事な景観を見下ろすことができる。
「香港のまち、人たくさんたくさんいます。だから空気、ダメですね。(ドラゴンズバックで深呼吸して)ここ、空気、いいですね。香港のサイコー空気ですね」
 そうやってぼくらはまるで恋人同士であるかのように毎日ふたりだけで出かけた。それこそ毎日デートしているようなものだった。それでも、ぼくたちはあくまでも日本人観光客と香港のおもてなしガイド、あるいは日本語専攻学生と日本語ネイティブの関係のままだった。たとえドラゴンズバックの坂道であっても、ヘレンちゃんとは手をつなぐことさえなかった。
 ある日、ヘレンちゃんにキャンパス内を案内してもらって、構内にあるカフェテリアでひと休みしようということになった。殺風景なテーブルとプラスチックの色とりどりの椅子が雑然と置いてある。学生のために安くて食べごたえのある料理を提供する学生食堂だ。
それでもさすが香港だけのことはある。メニューには実に多彩な料理が揃っていた。キャンパス内の寮に寝泊りしているぼくもヘレンちゃんもよくこの学食を利用した。
 その時は、歩き回って喉が渇いたので、お茶の時間にしようと立ち寄ったのだった。
「すぐるさん、香港の鴛鴦(ユンヨン)、飲むはダメですか?」
「ユンヨン?」
「そうです。香港人、大好き。チャーとコヒー、いっしょ飲みます」
「チャーとコヒー? 茶とコーヒーのことかな? 朝食の時、ぼくはコーヒーを飲むけど、ヘレンは紅茶を飲む。そのこと?」
「ピンポン、たっきゅうびんです」
 ヘレンちゃんの説明によると、ユンヨンとは紅茶とコーヒーを混ぜ合わせた飲み物で、香港でよく飲まれているらしい。
ヘレンちゃんは辞書を調べて、詳しく説明してくれた。それによると、鴛鴦(ユンヨン)とは「オシドリ」のことで、日本でも「オシドリ夫婦」と言われるように、常につがいでいる姿から、二つがひとつになったものに使われるという。
 紅茶とコーヒーの二つがひとつになったから鴛鴦(ユンヨン)あるいは鴛鴦茶(ユンヨンチャー)と呼ばれるらしい。海老と鶏肉の二種類の具が入った二色のあんかけ炒飯は鴛鴦炒飯(ユンヨン・チャオファン)と言われる。「鴛鴦火鍋」という鍋料理は、二種類のスープを味わえるように、鍋の真ん中に仕切りが設けられている。さらに「鴛鴦浴」なんていう言葉もあるそうだ。男女二人での混浴のことらしい。オシドリ夫婦の入浴だ。
 ぼくとヘレンちゃんは鴛鴦茶(ユンヨンチャー)を一緒に飲みながら、まったりと午後のひとときを過ごした。ちなみに「鴛鴦茶」には男女二人で飲む茶という意味もあるそうだ。まさしくヘレンちゃんと一緒に「鴛鴦茶」を楽しんでいたのだ。
 紅茶とコーヒーを混ぜた鴛鴦茶は不思議な味だった。まずコーヒーの香りと味がして、じっくり賞味すると紅茶の香りと味があとから追いかけてくる。ぼくはたちまち気に入ってしまった。
「チャーとコヒーが半分と考えるはダメですよ。二つあると考えるはいいです」
 視点の問題なのだという。紅茶とコーヒーが「半分」(ハーフ)ずつ入っているのではなくて、「二つ」(ダブル)の味わいがある、と受けとめるのが大切だとヘレンちゃんは力説する。そもそも香港自体がそういう文化を持っているのだと。
「ワタシの名前、ヘレン、イングリッシュネームあります。それから張(ちゃん)、チャイニーズの名前あります」
 ヘレンちゃんは「Helen 張(ちゃん)」だった。
 それが香港では一般的な名前の付け方なのだ。英語名があって、そのあとに中国名の苗字が続く。アグネス陳(ちゃん)やブルース李(りい)のように、文化がダブルになっているのだ。
 「ハーフではなくダブル」という考え方にいたく感心した。その後、機会があるたびにぼくたちは鴛鴦茶を味わった。ぼくとヘレンちゃん、男女二人で仲睦まじく飲む茶だ。
それでも、繰り返しになるけれど、ぼくとヘレンちゃんの間にはまったく恋愛感情は生まれなかった。ぼくたちは友だちだった。二人で鴛鴦茶を飲み、鴛鴦炒飯や鴛鴦火鍋を一緒に食べる、仲のいい友だちだった。だからもちろん、鴛鴦浴なんて一度もしたことがない。あたりまえだ。
 ぼくが帰国する時、ヘレンちゃんは啓徳空港まで見送りに来てくれた。香港滞在中のお礼として中島みゆきの「寒水魚」のカセットテープをプレゼントした。ヘレンちゃんは大喜びしながら
「寒水魚(ここは広東語で発音した)、なんのサカナですか?」と不思議がっていた。
「熱帯魚をもじって、中島みゆきが創りだした言葉だよ」と説明すると
「ピンポン、たっきゅうびんです、ですか?」と笑っていた。
ちなみに「中島みゆき」は香港では漢字だけの「中島美雪」になる。なんだか別人のようだ。日本語を話す時のヘレンちゃんと、広東語を話す時のヘレンちゃんのように。(でも、実は「中島美雪」は中島みゆきの本名だ。ああ、ややこしい。)
「すぐるさん、さよなら言うはダメですよ」とヘレンちゃんが繰り返すので、
「また会おう。絶対に、必ず、どこかでまた会おう」とぼくはヘレンちゃんと握手をした。
「ピンポン、たっきゅ……」
「ヘレン、泣くはダメですよ」とぼくは言った。

 日本に戻ると、ヘレンちゃんから次々に手紙が届いた。1週間に3通の割合でヘレンちゃんは手紙を送ってきた。まるで日記みたいに毎日の出来事を日本語で綴っている。もちろん、ぼくも負けじと返事の手紙を書いた。
でも、ヘレンちゃんのパワーには敵わなかった。何ヶ月か経つと、ぼくの手紙のペースはガクンと落ちたが、ヘレンちゃんからは相変わらず毎週3通の手紙が届いた。しかも、1通1通の手紙が長い。最低でも便箋3枚に綴られていた。
大量に文章を書くがゆえに殴り書きになってしまうのか、字は下手くそで読みにくかった。まるで、小学生の男の子みたいな乱暴な字を書いていた。豪快と言えば豪快な字でもある。日本語を使っているけれど、漢字が多いから広東語のヘレンちゃんが顔を覗かせているのだろう。
 ヘレンちゃんとの思い出にあふれた香港旅行から2年後、ぼくたちは日本で再会することになった。ヘレンちゃんが筑波大学に留学したのだ。
久しぶりに電話で声を聞くと、ヘレンちゃんは完璧に近い日本語を使えるようになっていた。「ンゴォー ハイ ヤッブンヤン」と言っても通用するくらいだ。
ただ、日本語を話す時、ヘレンちゃんの声はおしとやかに、その振る舞いは優美になるはずなのに、流暢な日本語を話すヘレンちゃんはかなりくだけた人物になっていた。日本語でも充分リラックスできるからだろう。
まるで、香港で最初に出会った時の、日本語のヘレンちゃんと広東語のヘレンちゃんの二人が交じり合ったかのようだった。紅茶とコーヒーの鴛鴦茶のように。ハーフではない、ダブルヘレンちゃんだ。
 ぼくへの香港土産はインスタント鴛鴦茶だった。熱湯で溶かして、ハイできあがり、というやつだ。ヘレンちゃんには申し訳ないけれど、残念ながらそのインスタント鴛鴦茶は不味くて飲めた代物ではなかった。あるいは、香港ではなく東京で飲んだからかもしれない。気候が違うと、同じものでも味ががらりと変ってしまうのだ。
 ヘレンちゃんは筑波大学の学生寮で留学生活を送っていた。あるとき、香港料理をご馳走するから寮の部屋に遊びに来ないかと誘ってきた。
「女子寮に男が入ってもいいの?」
「だいじょうぶ。自由な校風そのものだから。男性の宿泊も自由だよ。寮からの許可も特に必要ないみたい。一緒にご飯食べて、お酒飲んで、積もる話をして、ついでに泊まっていきなよ」
 開放的な寮に暮らす、開放的なヘレンちゃんだった。
 そういうことで、ぼくはヘレンちゃんの住む筑波大学の寮に遊びに行った。部屋に入ると、ヘレンちゃんは「寒水魚」の曲をかけてくれた。ヘレンちゃんは中島みゆきの大ファンになっていた。
「悪女」が何度もかかるなか、ヘレンちゃんが調理してくれた香港料理「蠔油冬菇炆豬肉」
 (豚のバラ肉オイスターソースうま煮)を食べ、ワインを飲みながら思い出話に花を咲かせた。ヘレンちゃんの日本語があまりにも上手くて、まるで初めて会った人と話をしているようだった。
ひととおり香港での二人の思い出を辿り、その後の2年間のおたがいの歩みを披露し終えると、もう午前2時を過ぎていた。さすがにぼくたちも疲れてきた。
「そろそろ寝ようか」と口にすると、自分のその言葉にぼくはドギマギしてしまった。
「ピンポン、宅急便です」とヘレンちゃんがすかさず冗談を言ってくれたので助かったけれど。
ぼくたちは歯をみがいてから眠る態勢に入った。ヘレンちゃんが自分のベッドに寝て、そのすぐ横のカーペットにぼくのために布団を敷いてくれた。そうやって至近距離でぼくらは横になった。
 ぼくとヘレンちゃんは友だちなのだ。こんな状況でも二人とも冷静さを保っていられる、はずだ。
ヘレンちゃんと出会った香港初日の夜を思い出す。野戦病院のようなゲストハウスで、端と端に離れたベッドに眠ったことを。ヘレンちゃんは「すぐるさん、ワタシのベッド、来るはダメですよ」と警告しながらも、あっという間にいびきをかいて眠ってしまった。
 あれから2年。
 ぼくたちはまだ仲のいい友だちのはずだ。
 それなのに、ぼくはなかなか眠りにつけなかった。ヘレンちゃんのいびきでもあれば子守唄になりそうなのに、ヘレンちゃんも何度も寝返りを打って眠れないようだった。
 ぼくたちは友だちなのだ。
 さっきからそればかり自分に言い聞かせている。
 でも、本当にそうなのか。ヘレンちゃんも同じ気持ちなのか。
 日本人のぼくと香港人のヘレンちゃんは生まれ育った文化背景が違っている。考え方も世界観も異なっている。男と女という違いもある。いや、そもそも世界には人間の数だけ別々の考え方がある。
 たとえば、中島みゆきは「悪女」の中で「浮気をしている恋人に、本心では『(別の女のもとに)行かないで』と訴えたいのに、わざと悪い女を演じることで自ら恋人に嫌われようとする女」の心を歌いあげている。
 でも、どうしてそんな回りくどいことをしなければいけないのだろう。
 正直に「行かないで」と訴えて、駄目だったら別れるよりないではないか。
 どうして、わざわざ悪女になる必要がある?
「悪女」を頭の中で響かせながら、そんなことを悶々と考えているうちに、いつしかぼくは不覚にも眠りに引きずり込まれてしまった。そして、そのことを一生後悔することになる。
 ヘレンちゃんに対してその夜なんらかのアクションを起こすべきだった、と悔いているわけではない。だがしかし、少なくともぼくは黙ったまま眠りに就いてしまうべきではなかった。自分の正直な気持ちをヘレンちゃんに伝え、それについてヘレンちゃんはどう思っているのかを訊くべきだったのだ。
 大切な機会は失われてしまった、永遠に。
 それでも地球は回り続け、ぼくたちは後悔を抱えてでも生き続けなければいけない。
 その日も時間を逆戻りさせることはできず、地球はその誕生の時からの自転を止められず、なすすべもなく新しい朝が来た。
 ぼくとヘレンちゃんは寝不足のまま無理をして起きあがった。ぼくはインスタントの苦いコーヒーを、ヘレンちゃんは紅茶を飲んで目を覚ました。鴛鴦茶はここにはない。もう二度とヘレンちゃんとは鴛鴦茶を一緒に飲む機会はないのだろう。
「いろいろとありがとう」とぼくが辞去しようとすると、
「どういたしまして」と決まり文句を口にしたあと、ヘレンちゃんはこんなことを言った。
「ねえ、『寒水魚』の中でいちばん好きな曲はどれ? 私はねえ……『捨てるほどの愛でいいから』がいちばんのお気に入り」

 次の夏、ぼくは東京を離れ、フィリピンのセブ島で働くことになった。タガログ語での生活に没入していくうちに次第にヘレンちゃんとは疎遠になっていった。手紙のやり取りはなくなり、クリスマスカードもいつしか途絶えた。それから数年後、風の便りでヘレンちゃんは日本人と結婚して広島県に住んでいると聞いた。
 ぼくはフィリピン女性と結婚して、二人のこどもに恵まれた。こどもたちには「きみたちはハーフではなくてダブルなんだよ」と言い聞かせて育ててきた。そのことがこどもたちの成長に良い影響を及ぼしたのか、はたまた悪い結果を残したのか、ぼくにはよくわからない。
 いずれにしても、ぼくらのこどもたちは家を離れ自立して、恋におち結婚して自分たちの家庭を築いていった。
地球は絶え間なく回り続け、ヘレンちゃんと出会ってからいつしか長い歳月が流れた。1982年の香港はもう存在しない。1997年に中国に主権移譲され、2020年に「一国二制度」は事実上崩壊した。香港の「ダブル」文化はこれから生き残れるのだろうか。
ぼくは今でも「寒水魚」をときどき聴いている。「悪女」にならなければならない女心を理解できる年齢になって久しい。それでもまだ「捨てるほどの愛でいいから」が流れるたびに、どんなに歳を重ねても人生にはわからないことが存在するとほろ苦い気持ちになる。そして、あの香港最初の夜を繰り返し思い出しては切ない想いをする。
「すぐるさん、ワタシの名前、忘れるはダメですよ」
「ちゃんと覚えてるよ。ヘレンちゃん、でしょう」
「ピンポン、たっきゅうびんです」
                           おわり

記:英語科 佐々木晋