猫娘に恋をして

 神代植物公園をひと回りしてから深大寺周辺をぶらつくと、ようやく身体に力が漲ってきた。ぼくみたいな田舎出身の者は定期的に自然に触れないと、何かをしようという気力がすぐに衰えてしまう。
 そうやって久しぶりに深大寺界隈の緑に癒されながらぶらぶらと歩いていると、急に空が暗くなり強い雨が降ってきた。最近よく耳にするゲリラ豪雨というやつだ。鬼太郎とねずみ男の人形にぶつかりそうになりながら、ぼくは妖怪カフェに飛び込んだ。
 そこには、雨音にも負けないほどの声量でおしゃべりをする女性の客ばかりがいた。
「男ひとりですけど、いいですか?」と、ただひとり静かにしている女性店員に訊くと、
「孤独で異質な存在で構わないなら、どうぞ休んでいってください」
 そう言って微笑んだ店員は、エキゾチックで彫りの深いペルシャ系の顔立ちをしていた。髪の毛を隠すヒジャブを被っている。実に異国情緒あふれる妖怪カフェだ。
「失礼、孤独で異質な存在、と言いましたか?」
「そう。女のなかに男がひとり。饒舌のなかに寡黙がひとり。あるいは、日本人のなかにガイジンがひとり。あっ、それは私か。じゃあ、人間のなかに妖怪がひとり」
 彼女はいたずらっぽく親指でぼくを指さした。
「そうかな。実は、妖怪のなかに人間がひとりだったりして」
 彼女は大きな目を丸くして、大げさに驚いたふりをした。それから声を出して笑った。
「孤独で異質な存在、なんて冗談よ。ここは老若男女を問わず、もちろん国籍も問わず、多弁・無口・人間・妖怪、誰でもひと休みしていける場所よ」
「それなら無口なぬりかべでも安心だ。ところで、日本語が日本人よりも上手ですね」
 最大級の褒め言葉のはずが、それを聞いた彼女の表情がさっと曇った。
「幼稚園から小学校・中学校・高校、そして今は大学とずっと日本の学校に通いましたから日本語は結構うまくなりました。日本人並みにはね。ところで、ご注文は?」
「幼稚園から大学まで? そんなに長く日本にいるんだ。てっきり……」
「ご注文は何にいたしましょう?」
「じゃあ……、ゲゲゲのラテ、鬼太郎で」
「インシャアッラー。神のご意思ならば」
 やれやれ、大失敗をしてしまった。ぼく自身が「日本語じょうずですね」なんて褒められたらどんな気分になるだろうか。あたり前だ、ずっと日本で暮らしているんだ、と怒るだろう。それと同じことを彼女にしてしまった。
 一目惚れをした素敵な女性に向かって、ぼくはいきなり嫌われるようなことを口走ってしまった。
 日本人が外国人を褒めると、ときどき馬鹿にしているように聞こえるらしい。日本人と同じことは外国人にはできないと見下す気持ちが見え隠れする、というのだ。
 鬼太郎のラテアートを持ってきた彼女に向って、ぼくは両手をテーブルにつき深々と頭を下げて大きな声で謝った。こういう場合は正直に謝るべきだ。これは世界共通だろう。
「さっきは本当にすいませんでした。外国人なのに日本語がうまい、と馬鹿にするような態度を取ってしまいました。これからは気をつけます。許してください」
 隣のテーブルに陣取っていたおばさんの一人が「心から謝っているから許してあげてね」と彼女に声をかけた。たまにはおばさんの出しゃばりも役に立つ。彼女の表情が緩んだ。調子に乗ったおばさんは「あんた、江戸っ子かい?」と余計なことをぼくに訊いてきた。
 彼女の名前はパリーサといった。イラン出身だけれど、四歳の時から日本に住んでいるので、日本語も日本文化も普段の生活で当たり前のものになっているという。
「でもね、日本人の子どものように気楽には学校に通えなかった。ムスリムだから」
 ぼくとパリーサは深大寺の境内を歩いていた。妖怪カフェでの彼女のバイトが終わるのを待って、仲直りを兼ねて二人で話をしようと誘ったのだ。
「学校でもお祈りしないといけないし、一か月も続く断食なんてものまである。豚肉は食べてはいけないから給食も気をつけないといけない。でも、ビーガン(完全菜食主義者)やジャイナ教徒はもっとたいへんかもしれない。妖怪たちならさらに苦労する」
「おばけにゃ学校も試験も何にもナイ!」
 ぼくがおどけて歌うと、パリーサは笑ってくれた。ぼくの心を明るくする笑顔と笑い声。
「程度の差があるだけで、みんなたいへんだよ」
 ぼくは自分の中学時代を思い出す。とても気楽には学校に通えなかった暗黒の時期だ。
 道行く人がパリーサをチラチラと見ていく。珍しいのだ。顔立ちもヒジャブもいかにも中東のムスリムだ。そんな女性が仏教の寺の境内を日本人の男と歩いている。もちろん、異教徒を排除しようと睨みつけるような人はいない。ただ、珍しい動物を見るかのように、抑えられない好奇心から彼女に視線が集まるのだ。
「まったく残酷な皮肉よね。みんなと同じにしましょう、という教育を小さい頃からずっと受けてきたのに、どうあがいても絶対に周りの日本人と同じになれないんだもの」
 日本の学校に通い、友だちはほとんどが日本人、でも家ではムスリムとして厳格な躾を受けたパリーサ。ぼくには想像もつかない葛藤だらけの人生を送ってきたに違いない。
 ぼくたちは本堂の前まで来た。中からお経が流れてくる。毎日のお勤めの読経だ。内容は理解不能だけれど、仏教の教えを一心不乱に唱えているのだ。
「どんな宗教であろうと、聖典を大きな声で唱えているのを聞くと心が洗われるわね」
 読経の声が響き渡る。彼女の言うように、なかなかいいものだ。
「ねえ、パリーサ、きみはイランに帰りたい? それとも日本に住み続けたい?」
「わからない。どちらも私の故郷ではないもの。日本にいてもイランに帰っても、私は居心地の悪さを感じながら生きるよりないと思っている」パリーサは大きなため息をひとつ吐いた。「ねえ、猫娘は人間と妖怪との間に生まれた『半妖怪』だって知っていた? 妖怪でも人間でもない中途半端な存在なのよ。まるで私のようにね」
「でも、ぼくは猫娘が大好きだよ。きみが猫娘なら、ぼくは……」
 彼女は本堂に向かって深々とお辞儀をして敬意を表し、そのまま回れ右をして今きた道を戻り始めた。彼女の後姿を見つめながらぼくの胸は高鳴っていた。
「大好きな猫娘さん、待ってよ」ぼくは彼女に追いつき言った。「ぼくは……」
「日本人は私に向かってこう言うの。いろいろたいへんなんだね。でも、頑張ってね。みんながいつもそう言うの。頑張ってねって。私っていつも頑張らないといけないのかな?」
「そんなことはないよ。たいていの人は適度に手を抜いて生きている。頑張ってない人だってたくさんいる。そういう人たちのほうが幸せに見えるくらいだ」
 その日、結局ぼくたちは友だちのまま別れた。でも、ぼくにとってパリーサはもう友だちを超えた存在だ。
 ところが、突然、パリーサは妖怪カフェのアルバイトをやめ、大学を中退して、ぼくから遠く離れたところへ行ってしまうことになった。
「イランに帰ることになったの」電話をかけてきたパリーサはいきなり爆弾宣言をした。「明日の便でイランに帰ることになったの」彼女は涙声でそう言った。
「明日の便? どうしてそんなに急に? それはパリーサの意志なのかい?」
「私をもうこれ以上日本に置いておけないと母が言うのよ。二十歳になった私を、悪魔の囁きに満ちたこの国に暮らさせるわけにはいかないってね。日本では幽精のジンが大手を振ってはびこっている。それは日本人が偉大なるアッラーの神を信じないからだ、って」
「ジンだろうと妖怪だろうと、きみのような妖精だろうと、人間と共存できるはずだ。異質なもの同士でも一緒に生きられるはずだ。ぼくはそう信じている」
「ええ。聖典クルアーンでもジンの存在を認めている。おたがいに認め合えば、きっと共存できる。でも、そのためにはランプの精の力など借りない、大きな勇気が必要なのよ」
「ぼくは君のためなら、魔法のランプなしに、どんなことにでも立ち向かってみせる」
「じゃあ、テヘランに来て。私のところに来て、母を説得して。どう? できる?」
「もちろんさ。空飛ぶ絨毯に乗って、すぐに君のもとに駆けつけるよ」
 彼女は翌日、本当に日本を発ってイランへ帰ってしまった。日本で今まで積み上げてきたものすべてを手放して、身ひとつで母国へと連れていかれたのだ。
 パリーサは一生にただひとりの男性、つまり将来の夫となる人とだけ恋愛関係になることを望んでいる。だから、それだけの覚悟をぼくは持たないといけない。
 ぼくはパリーサを追ってテヘランに行く。魔法のランプの力を借りないのと同じように、深大寺のお守りもイランには持っていかない。縁結びに力を発揮すると信じられている神さまの力など借りないで、ぼくは自分の力で彼女の母親を説得して、ぼくたちの交際を認めてもらうつもりだ。そして将来は、パリーサと祝福される夫婦になるのだ。  インシャアッラー。神のご意思ならば。

記:英語科 佐々木晋