異文化の新年
除夜の鐘の音と共に年が暮れていき、厳かに静かに新年を迎えるのが日本の伝統である。「日付が変わる夜更け頃より、さすがに物音もしなくなってひっそりとしてしまうのは、旧年の名残もしのばれ、もの淋しい」(兼好法師)が、元旦の夜明けは「特別な心地がする」(同上)ものである。まさに「近うて遠きもの 師走のみそかと、正月のついたちとの間」(清少納言)である。そうして「正月一日はとても明るくてのどかにお日様が照っているの」(同上)と慶ばしい気持ちになる。平安時代も鎌倉時代も今でもそれは同じだ。
ところで、大晦日から元旦にかけての風習は日本国内でもずいぶん違うようだ。例えば、私が生まれ育った北海道では、おせち料理は大晦日に食べる。年越しのご馳走は握り寿司とおせちが定番で、そのうえさらに年の替わり目に年越しそばを啜る。朝寝して迎える元旦は、雑煮とおせちの残りで軽くすませる。
静かに新年を迎える日本に対して、長年暮らしたインドネシアでは打ち上げ花火と共に新年がやって来た。カウントダウンが合唱され、年が替わった瞬間に花火を何十発も派手に打ち上げ、玩具のトランペットを至るところでブーブーとやかましく吹き鳴らして新年の挨拶とするのである。もし午前零時前に就寝していたら、びっくりして跳ね起きること間違いない。うっかり寝ていたら起こされる、南国の陽気な迎春である。
実は私も新年の花火に叩き起こされてパニックに陥ったことがある。ちょうどバリ島で残忍な爆弾テロがあった年で、打ち上げ花火の凄まじい爆音に飛び起き、寝ぼけた頭でてっきり爆弾が家の近くで爆発したと勘違いしてしまった。うろたえながら大あわてで妻と幼い子どもたちの無事を確認してまわったほどだ。まったくもって人騒がせな花火である。
それにしても、あれほどの爆音だったのに飛び起きたのは私だけで、妻と子どもたちはぐっすりと眠っていたのには驚いた。
元旦の朝、とにもかくにも平和な一年になることを家族みんなで心から祈った。
まだ独身のころ、大晦日から元旦にかけて貴重な経験をしたことがある。ジャカルタの公園でインドネシア人の友人たちと一緒に年越しをした時のことだ。花火とトランペットで大汗をかいて(熱帯の国なので年じゅう猛暑日である)騒いでいると、水を差すように雨が降り始めた。騒ぎは一時中断、近くの民家の軒下で雨宿りとなった。木造の小さな家である。十名ほどでぎゅうぎゅう詰めになって雨を避けていた。それもまた愉快で、ケラケラ笑い、ふざけ合っていた。
その時、窓が開いて、やせたおじいさんが顔を出した。てっきり、うるさくおしゃべりをしていたので怒られるかと思いきや、
「濡れるから中に入りなさい」
と優しく声をかけてくれたのだった。
私たちは恐縮しながら家に入れてもらった。玄関の戸を開けるとすぐ六畳ほどの居間になっている。といっても、土間である。家具はほとんど何もない。座る椅子もなかったので、われわれはみんな立ったままだった。それでも少なくとも雨に濡れずにすむ。おじいさんはお茶をごちそうしてくれた。コップが二つしかなかったので、みんなでまわし飲みした。渇いた喉に染み入る旨さだった。
わたしたちは心温かい気持ちでいた。そして、誰もが心の中で祈っていた。独りで暮らす心やさしいおじいさんにとって、新しい年が良い一年になりますようにと。
ある年の正月に日本人の知り合いから餅をもらったので、妻に雑煮を作ってくれるよう頼んだ。インドネシア人の妻は雑煮とは何であるかまったく知らず、ただ「餅を入れた正月に食べるおめでたいスープ」という大雑把な私の説明だけで作り始めた。料理上手の妻がどんな雑煮を作るか楽しみだった。妻は鶏がらで出汁を取り、醤油と青唐辛子で味付けして、鶏肉と野菜をふんだんに使った「インドネシア風雑煮」を作り上げた。
熱帯の常夏の国なので、正月もまた猛暑日のうえに熱帯夜だ。そんな気候のなか、唐辛子で辛く味付けして食欲をそそる雑煮は、見事なエスニック料理になっていて、家族みんなで汗をかきながら美味しくいただいた。
その後、子どもたちはTシャツと短パンの普段の格好で、日本人学校の冬休み(!)の宿題である「かきぞめ」に取り組むのだった。「白い雪」だの「冬の朝」だのと。
記:英語科 佐々木晋