やがて楽しき外国語の旅(1)

 今までに数多くの外国語を学習してきた。数えてみると二十言語近くあった。趣味と実益を兼ねて、となれば素晴らしいが、実のところ使えるようになった言語はほんのわずかしかない。それどころか、勉強はしたけれど一度も使う機会のなかった言語すら幾つもある。多くの時間を無駄にしたようにも思えるけれど、まったく後悔はしていない。なんといっても外国語学習は楽しい。たとえ身につかなくても、使うチャンスがなくても、学習の過程で必ずや異文化の風に触れられる。それが楽しいのだ。
 ここでは私がもっとも関わった英語とインドネシア語に絞って、楽しき外国語の旅を振り返ってみたい。

 生まれてから小学校卒業まで、日本語以外の言語とはまったく触れたことがなかった。わずかにローマ字を国語の時間に習っただけである。もちろんこれは日本語をローマ字表記しただけで、外国語でも何でもない。それでも小学4年生の私は普段自分が使っている日本語なのに、いざ別の文字で書かれると、まったく違う言語(外国語のようなもの)に見えて、読むのにずいぶん苦労した。すらすらと読めるようにはならず、つっかえつっかえ、間違え間違え読んでは、ローマ字なんて大嫌いだ、どうしてこんなものを勉強しなければいけないんだ、と恨んだものだ。
 ところで、日本語をローマ字表記しても(ヘボン式であろうと日本式であろうと訓令式であろうと)、正確に読めるのは日本人だけで、日本語を知らない外国人はローマ字表記の地名や人名すら、時には正しく発音できない。例えば、アメリカに高校留学したとき、実家のある千歳市をヘボン式で書く(Chitose)と、たいていのアメリカ人は「チャイトーズ」と発音した。日本式(Titose)でも「チトセ」とは読んでくれないだろう。
 私の名前(SASAKI Susumu)も驚くことに時にはとんでもない読み方をされた。部活でやっていたレスリングの対抗試合の時、選手紹介で私は「スゥワミュ」と呼ばれた。どこをどう読めばそうなるのか皆目見当もつかない。そもそも苗字なのか名前なのかすらもわからない。観戦に来ていたクラスメートは面白がって、それから私のことを「スワミ」と呼び始めた。それが私のあだ名として広まった。そのうちに、由来を知らない人から「スワミというのは日本語でどういう意味?」と聞かれ、面食らってしまうことまであった。
 ローマ字表記された日本語は、当たり前だけど日本語なので、日本人の間で通用すればいいのだ。民俗学者の梅棹忠夫氏は日本語の「漢字仮名交じり」は合理的ではないとローマ字表記の採用を唱えたが、これはなにも外国人の日本語学習を容易にするためではもちろんなかった。日本人にとってローマ字表記のほうがわかりやすいというのだ。確かにローマ字だけを使うなら、難しい漢字が出てくることもなく、少なくとも誰でも小学生でも音だけは拾って読むことができる。だから、漢字を覚えることに小学生の頃から膨大な時間を費やす必要がなくなり、その時間を暗記ではなく思考を鍛える学習に当てることができる。
 大学生の頃、この「日本語をローマ字表記にする」考えに大いに賛同していた時期がある(ローマ字を憎んでいた小学生時代とは正反対だ)。なにより漢字を覚える必要がないというのが魅力だった。他人に見せないといけない手書き文章(例えば英語記述模試の英文和訳)で漢字を思い出せずひらがなやカタカナで書かざるを得ないのは屈辱で、大きな精神的打撃となる。ローマ字表記ならそんな問題は起こらない。
 とはいえ、ローマ字表記運動に加わる時間もエネルギーもなく、漢字仮名交じりの日本語を読み書きして今日に至る。ちなみに、梅棹氏が会長を務めたこともある「日本ローマ字会」は2023年3月に解散した。日本語改革を目指した全国組織が100年を超える歴史の幕を閉じたのだ。ただ、同じくローマ字運動を展開する「日本のローマ字社」は現在(2023年10月)でも活動を続けている。
 このローマ字表記問題と似ているのが、漢字ハングル交じりから完全にハングルだけの表記に転換した韓国の状況だ。日本語から漢字を廃し、仮名表記にしたようなものだ。それを実際に韓国はやってのけたのだ。
「ハングルのみでは同音異義語が多量に発生するため読みづらくなる」「漢字を用いずして語の正確な意味を知ることは不可能」「伝統文化との断絶を回避すべき」との理由で漢字復活を主張する声もあるようだが、ハングルだけ使用する韓国語の表記法は変わらないだろう。一世代かけて漢字を使わずハングルのみを使用するハングル世代を育成した大事業を後戻りさせるわけにはいかない。
日本でも一世代をかければ日本語から漢字をなくすことができるだろう。でも、それが本当にいいことかどうか、よくよく考える必要がある。私も若いときは「ローマ字表記」に諸手を挙げて賛成したが、今はもう逆の立場となっている。まだ文字に触れていない二歳の孫(ただし、自分の名前を書いてとよくせがむ)には、ひらがな世代にもローマ字世代にもなってもらいたくない。おじいちゃんの書いた文章を読んでもらいたいからだ。とは言っても、必要あらば、漢字仮名交じり文なぞただちにローマ字にでも仮名にも変換できるアプリは簡単に作られるのだろうけれど。

 やれやれ。「外国語の旅」と言っておきながら、いきなり脱線してしまった。でも、旅には寄り道がつきものである。道草や寄り道があるからこそ旅には思いもよらない発見があったり、思いがけずわくわくする展開が待っていたりする。予定通りにただ目的地だけを巡るのは旅の醍醐味に欠け、面白味のない日程消化のための旅行と化してしまう。
やれやれ、言い訳を書いているうちにまた脱線しそうなので、このへんで本題である自分と外国語の関わりについて書いていくことにする。

 中学校に入学して英語を勉強することになった。現在までの半世紀に及ぶ外国語との付き合いはこのとき始まった。
 英語は12歳の私に世界への窓を開いてくれた、なんてことはまったくなかった。英語ができるようになれば、アメリカやイギリスの人たちと話ができる。いや、世界じゅうの人との会話が可能になる。中学生の私はわくわくして英語を勉強した、わけではなく、英語は難しくなった中学校での科目のひとつにすぎなかった。数学や社会や理科第一分野などと同じである。理科第一分野の勉強が進んでも「ああ、自分の世界が広くなっていく」なんて実感はないのと同様に、いくら英語を勉強してもテストで良い点が取れるだけで、外国との繋がりなど意識することはまったくなかった。要するに、外国語というよりも一つの科目に過ぎなかったのだ。
 そんな意識が劇的に変わったのは中学3年生になろうとする春のことだった。どういう経緯でそうなったのかは覚えていないが、フランス人の同年齢の女の子と文通することになったのだ。もちろん、英語を使ってである。サビーネ(たぶんそう発音すると思う。スペルはSabine)との文通は約3年も続いた。おたがいに気が合ったのかはわからないが、少なくともこの相手との文通を途切れさせたくない熱意が双方にあったのは確かだ。私が「フランス人の女の子」に関してまったく知識がなく、ただただ興味の対象としていたのと同じように、サビーネにとって「日本人の男の子」は理解の範囲を超えた文化人類学的関心をそそる対象だったのかもしれない。
 いずれにしても、私とサビーネは熱心に手紙を交換し続けた。私にとっては初めての外国との繋がりだった。そして思った。英語を介せば、フランス人の女の子と手紙のやり取りができる。いや、待てよ。世界じゅうの女の子と文通できるじゃないか、と。もっとも当然ながら、これは現実的ではない。郵便代もかかるし、女の子に手紙を書くには多くの時間とエネルギーが必要になる。なによりも、手紙を書いてばかりいるわけにはいかないのだ。
 しばらくはサビーネだけが文通相手だった。フランスの切手が貼られ、私の名前と住所がブルーのインクの万年筆で丁寧に書かれたエアメール(国際航空郵便)は、確かに外国の雰囲気をパッとしない街に住むパッとしない中学生男子に運んできてくれた。サビーネはいつもブルーのインクの万年筆で丁寧に活字体で書いてくれたので、とても読みやすかった。それを真似するために、わざわざ万年筆を買って、ブルーのインクで丁寧に書こうとすると時間がやたらとかかってしまった。手紙を書いてばかりいるわけにはいかないのに。
 それにしても3年間も文通が続くなんて、いったい何を書き綴っていたのだろう。残念ながら記憶にまったく残っていない。つまり、サビーネとどうやって知り合って文通を始めたかも、長きに渡ってどんな内容を書いていたかも、今ではもうわからない。ただ、拙い英語(文通を始めたのは中学3年生になる前だった)でも何とか意を伝えようとたくさん書いたし、サビーネに日本のことをいろいろ知ってもらえるようにと、英語の勉強量を増やした。そのぶん着実に英語力は上がったはずだ。なによりも英語の勉強が楽しくなった。かくのごとく外国語の学習には「達成動機」が必要なのだ。
 中学を卒業すると、札幌に下宿して高校に通った。何をやりたいという明確な目標はなかったけれど、1年生の1学期は下宿生活に慣れ、高校生活に慣れ、毎日の生活に慣れるだけで精いっぱいだった。成績は悪くなかったけれど、特に英語力が伸びたということもなかった。サビーネとの文通は続いていたが、再び英語は単なる科目のひとつに成り下がりつつあった。
 それが一変したのは2学期が始まった直後だった。
「アメリカへの留学生試験を受けたい人はいますか?」
 朝の会で担任がそう言った。
 アメリカへの留学生試験?
 アメリカへの留学というのはアメリカ留学のことか?
 私は混乱していた。留学というのは大学生がするものだと思っていた。それがまさか高校生の留学制度があるというのだ。アメリカの一般家庭にホームステイして1年間アメリカの高校に通うという。そんな素晴らしいものがこの世に存在するなんて、それまで誰も一言も教えてくれなかったじゃないか。
 その日を境に私の高校生活は激変した。アメリカ留学一直線、となったのだ。
 その年の試験には間に合わなかった。あれこれと書類を用意しなければならなかったし、なによりも心の準備が追い付かなかった。アメリカ留学という大それたものに今の自分が立ち向かうのは無理だ、と早々に諦めてしまったのだ。
 1年間じっくりと英語力を身につけて、次の年の留学生試験で合格するつもりだった。そのために、衝撃の朝の会があった当日からさっそく猛勉強を始めた。手当たり次第に英語の勉強になりそうなものは何でもやった。それまで殆どやらなかったリスニングにも力を入れた。ラジオ番組「百万人の英語」は毎日聴いたどころか、録音して何度も聴いた。「英語会話」などのラジオ番組もテレビ番組も片っ端から録音して繰り返し聴いた。書く力を伸ばすために、サビーネに加えて、アメリカ人の女子高校生と文通を始めた。伝家の宝刀「女の子と英語で文通」である。特に今回は英語母語話者だ。張り切って長文の手紙を書いたものだ。
 いくら勉強してもまったく辛くなかった。強い達成動機、夢があったからだ。あらゆることで世界トップに君臨する(と当時の私には思えた)アメリカは憧憬の的だった。そんな憧れの地に立つ自分を夢見ながら、狭苦しい下宿の4畳半で真冬でもストーブを点けず(暖かいと眠くなる)、毎日英語ばかりを勉強していた。そして1年後、念願の留学生試験に合格してアメリカへ行くことになった。
 アメリカの高校に通うようになって、驚いたことは幾つもある。例えば、教師と生徒の気さくな関係だ。先生の呼び名からして日本では考えられないものだった。数学のレイトン先生は「アンクルジョー(ジョーおじさん)と呼んでくれ」と自己紹介の時に言ったものだ。そんな呼び方をできない私が「ミスターレイトン」と呼ぼうものなら「きみは私たちの関係をそんな堅苦しいものにしたいのかい」と言われる始末だった。学生の中には「ジョー」と呼び捨てにする者すらいた。
 レイトン先生と初めて会った時はまだ夏休み中で、先生はペンキ塗りのアルバイトをしていた。「夏休み中は教師の給料が出ないから、働かなければハンバーガーにもありつけないんだ」とおどけていた。先生は本当に明るい人で、留学中の悩みも先生と話すだけで気持ちが軽くなったものだ。いつも親身に相談にのってくれたので、それこそ「おじさん」みたいな存在だった。それでも最後まで「ジョーおじさん」と軽々しく呼ぶことはできなかった。「先生を敬うのが日本の文化なのです」と説明すると、レイトン先生は「なるほど。そういうことなら私も日本で教師をやるべきだな」と大笑いしてくれた。
 気さくなアメリカ人といえば、留学したばかりの頃、学校のベンチでりんごを食べていた女子生徒から「日本からの留学生よね。よろしくね。りんご食べる?」と自分がかじっていたりんごを差し出されたことがある。アメリカ人はりんごを丸かじりする(リンゴを切ったり皮をむいたりするのをアメリカでは目にしたことがない)ので歯形までついている。それでも、食べないと失礼にあたりそうなので、一口だけかじって返すと「おいしいでしょ」と言いながらそのまままた食べ始めた。この出来事はかなりのカルチャーショックだった。もっとも、りんごに限らずアメリカ人はよく「食べてみる?」と食べかけのものを初対面の人にでも差し出す。もっとも、こんな「古き良きアメリカ」もコロナ禍の中で他人との接触を避けるために変貌してしまったかもしれない。
 留学生試験までの1年間、さらにそれからアメリカ渡航までの1年間、それこそ膨大な時間を英語学習に費やしたが、アメリカ到着後、うまく英語が通じないことも多かった。高校生活はすべてが新鮮で、楽しい毎日を過ごしていたが、英語が細かいところまでは聴き取れず、歯がゆい思いもしていた。車で移動する時にはよくラジオ放送を聴いたが、話すスピードが速すぎて完全には理解できなかった。
アメリカに来て四ヶ月ほど経った頃、ホストブラザーが銀行で用事をすませている間、ひとり車の中でラジオのニュースを流して待っていた。
「日本の経済は好調で、ついに1ドル200円を突破し……」
 へええ、そうなんだ、と思った次の瞬間、ハッと気がついた。ラジオから流れてくるニュースを自分がすべて理解しているではないか!
 目の前の幕がばっさりと落ちるように、どんなにスピードが速くてもアメリカ人の話す英語がわかるようになった瞬間だった。おもしろいように何でも聴き取れるようになった。アメリカに着いてから日本語をまったく使わず、英語だけの毎日のなかで耳が(というよりも脳が)少しずつスピードに慣れていったのだろう。聞き取りはまさしく慣れが重要で、まずここをクリアできれば、話すほうはなんとかなるものである。
この頃から夢まで英語に切り替わってしまった。なんだか不思議な感覚だった。おまけに不思議な夢もたくさん見た。ある夢のなかでは、恋心を抱いていたキャロライン=ジョンソンが私にアイラブユーと求愛している。それに対して「何を言っているのか全然わからないな。英語で話してくれよ。それもアメリカ英語で。アメリカンでいこうぜ」なんてエラそうに私が英語で諭しているのだ。おそらくそれまで抱いていたアメリカ人に対する劣等感がその頃から少しずつ薄れていったのだろう。その勢いを借りてホームカミングのダンスにキャロラインを誘ったけれど、あっさり振られてしまった。世の中、そんなにうまくはいかないものである。
 あれこれあったけれど、英語だけの世界に1年間浸れたのは貴重な体験だった。なによりアメリカの高校での日々は楽しくて、青春をとことん謳歌した。
 大学に入学してから、高校時代の始めと同じように、特に何をしたいという目標もなく、東京での生活をダラダラ過ごしていた。教養課程が終われば、国際関係に関わる専門分野に進もうと漠然と思っていた。国際関係と言っても、目は相変わらずアメリカに向いていたし、英語ができれば何とでもなると甘い考えを持っていた。
 ところが、そんな将来設計が少しずつ別な方角へと向き始める。
 契機は一冊の本との偶然で運命的な出会いだった。

                           (つづく)
記:英語科 佐々木晋