― 子どもの成長を願って ―

シリーズ第Ⅱ集②  「コミュニケーション」

「コミュニケーション」は情報伝達や意思疎通などの表現、又意思を伝え合う、交流を図るなどの行動を指す言葉(以上ネットからの引用)とある。

毎朝通学する風景の中、にぎやかにしゃべったり黙々と学校へ急いだりと様々な様子の中で、傍らを歩いていた知らない子に大人である私が声をかけて、「何年生?」「名前なんて言うの?」ちょっと驚きながら小さな声で答えてくれたが、それよりも何よりも通学仲間の口から出た言葉「そんな声掛けして、不審者に思われるよ」と。更に「親を通じて通報されるよ」とも。

今何が起こっているのだろう?確かに最近も近所の公園でやたらに子どもに声をかける人がいて、不審がられ学校にも通報されたとのこと。

小学校という教育現場でこのような「知らない人」=「不審者」という図式が植え付けられているのだろうか?確かに知らない大人からの突然の声掛けは子どもにとって「怖い」「驚く」「危険」ということなのかもしれない。「知らない大人」からのアプローチを即座に遮断することで、もしかしたら遭遇する「危険」からは身を守れるのかもしれない。

しかしそのことだけで止まってしまったら、コミュニケーションは始まらないことになる。「コミュニケーション」(情報伝達)の働きや影響は計り知れない。子ども同士は勿論のこと大人とのコミュニケーションによって子どもは様々な知識を得ている。

それでは危険が転がるこの世の中で「知らない人とはしゃべらない」といったしつけと、広くコミュニケーションをとって、大げさに言えば世の中の動きや、豊富な知識をキャッチしたいという働きのバランスをうまくとる方法は何であろう?

それは「教育」にあると思っている。人とのかかわりの持ち方、言葉かけ、見知らぬ人の見定め(これは多分低学年では無理かもしれないが)相手のことを見抜く目、そして堂々と会話できる能力、これらはすべて日頃の教育の中で培われる「知恵」にもとづくもの。

幼いときは「知らない人に声をかけられたらすぐ逃げるように」といったしつけのレベルで済むかもしれないが、ご存じのように世の中そんなに単純ではない。

子どもが小学校高学年や中学生以上になれば、成長とともに身につけていけるものと考えるが、そうだとしても長じて必ず誰もが必ず身に付けられるとは限らないというのがこの「人を見る目」や「力」をもって人とコミュニケーションがとれるということ。決して一朝一石ではない。

よく勉強というと算数や国語、社会、理科、英語を思い浮かべるがこれらの教科を学ぶ中に、出てくる人物像(国語)、生物の仕組み(理科)、或いは世界の地域やそこに暮らす民族への認識(社会)などを学ぶ中で人間への考察が自然に身についてくるはず。

人とのコミュニケーションをとることと、身を守ること、どちらも日々の学習から知恵や知識を得て賢い人間に成長していくことに外ならず、日常の暮らしの中ではいわゆる「親業」発揮のしどころと思われる。

クラズ事務局福島喜久