文章を書くということ  ~遠回りは面倒だが役に立つ 番外編1/5~

高校時代の友人Sは、泳ぎ続けないと酸欠で死んでしまうサメのように、常に文章を書いていないと生きていけない執筆中毒者だった。食事時はもちろんのこと、登下校の途中であろうと友人と一緒にいる最中であろうとお構いなしに何かを書いていた。

ながらスマホならぬ、ながら執筆である。

校内マラソン大会の時ですら、走りながらマラソン大会のルポを書いていたほどだ。

途中で教師に見つかって筆記用具を取り上げられたSは執筆禁断症状を起こして瀕死の状態でゴールに倒れこんだ(それでも十キロ走りきったのだから凄い)。生徒会の役員が心配して駆け寄ると「完走した褒美にノートと鉛筆をくれ。今すぐ」と訴えたそうである。

しかし、他人に読まれることのない文章は悲しいものだ。読まれない文章に存在意義はあるのだろうか。読み手のつかない文章を大量に書き殴っていたSはいつしか虚しさを感じ始めた。自己満足のために、あるいはただ生き続けるために書くのではなく、自分の文章を誰かに読んでもらいたかった。誰でもいい。文章で言葉のやり取りをしたかった。

そんなSが目をつけたのが「学級日誌」だった。席順で回ってくる日直が、項目に従って事務的に埋めるだけの無味乾燥な「その日の記録」である。しかし、ここを文章発表の場にしようとSは思いついた。ここにまとまった文章を書けば、必ず級友たちの目に留まる。日直になれば誰もが学級日誌を手にして、前の部分をパラパラとでも読むはずだ。

学級日誌の革命を起こしてやる。
Sは高ぶる気持ちを抑えられなかった。  次回へ続く・・・

記:英語科主任 佐々木晋