外国語で暮らすということ  ~まだまだ道草は続く~

「星に誓って、君を一生愛し続けよう」
インドネシア人の恋人(現在の妻)に宛てたラブレターの一節だ。日本語では歯が浮いて口に出せないセリフでも、外国語であれば、どんなことでも平気な顔で伝えられる。私は照れることなく、甘い言葉を書き連ねた恋文を送った。
そして、大恥をかいた。

当時はまだインドネシア語初心者で、せっかくの愛の表現をとんでもない内容に変えてしまっていた。星(ビンタン)を動物(ビナタン)と誤って綴り、誓う(スンパー)をゴミ(サンパー)と混同していたのだ。
「動物へのゴミで、君を一生愛し続けよう」
恋人にそう告げたことになる。

手紙を読んだ彼女はおかしな言い回しに笑いを堪えながらも、ひょっとすると「動物へのゴミ」という比喩表現が日本語にあるのではないかと疑ったという。それをインドネシア語に直訳したのではないかと。しかし、いくら考えても、どういう意味になるのかさっぱり分からなかった。それはそうだ。「変しい変しい私の変人」と同じようなものだ。

そういうとんでもない失敗は数限りない。言い間違いは頻繁に起こる。特に頭に血が上っている夫婦喧嘩の際は甚だしい。外国語で恋を語り、喧嘩ができれば、その言語はもう一人前だという。それほど、この喧嘩が難しい。愛を囁くときは相手も好意的に耳を傾けてくれるが、喧嘩となるとそうはいかない。
犬も喰わない喧嘩の最中に私がインドネシア語で怒鳴ると、妻は突然吹き出し、ゲラゲラと笑い出した。目尻の涙を拭いつつ切れ切れの息で説明してくれたところによると、「俺の忍耐力には限度がある」と啖呵を切ったつもりが「俺の生殖能力には棒がある」と叫んでしまったらしい。手紙の例と同様に、発音が似ている単語の言い間違いだった。

外国語を習得するのは本当に難しい。文法を身につけ、単語を覚えるだけでも、膨大な時間と根気が必要になる。みっともない間違いを犯しては赤恥をかいて、それでも挫けずに学習を続ける強い意志の力も欠かせない。
ところが、文法が身につき、語彙が充分に増えても、まだその言語を会得したとはいえないから厄介だ。どの言語にも特有の文化基盤があるので、その言語を使用する人たちの価値観や考え方まで理解しないと母語話者には近づけない。

例えば「星に誓って、君を一生愛し続けよう」と発音も文法も正確に伝えられても、それはあくまでも外国人のインドネシア語にすぎない。インドネシア人は決してそんな表現は口にしない。信仰心篤いインドネシア人にとって、一生の愛は「神に誓う」ものである。星なぞに誓うのはヘンな外国人くらいのものだ。
だから、相手の文化を考慮に入れずに直訳をして話すと、理由も分からず伝わらないことがある。日本語をそのままインドネシア語に翻訳して失敗した例もまた枚挙に暇がない。例えば、結婚した直後に、朝起きて「スラマットパギ(おはよう)」と声をかけると、妻は途端に機嫌が悪くなった。
「私たちはもう夫婦でしょう、そんな挨拶言葉を口にするなんて他人行儀で冷たい。夫婦に挨拶なんて必要ないでしょう」
妻は本気で腹を立てていた。夫婦の間では挨拶など交わされない文化で育ってきたのだ。

文化背景まで理解しないと、言語を自由に使いこなせない。外国語の達人になる道は遠い。さらにもう一つ難問がある。相手の文化を理解するだけでなく、時には日本人としての文化基盤をあえて捨てなければいけない場合があることだ。
欧米人は「口の人」であるのに対して、日本人は「目の人」と例えられる。日本の文化では「目は口ほどにものを言い」と称し、言葉にしなくても気持ちは伝わるものだと考えられている。以心伝心、あうんの呼吸で築かれる人間関係が理想とされる。
しかし、それはあくまでも日本人同士の間での話である。異文化結婚をして外国語で会話をしている者は「言わなくても分かってくれる」と淡い期待を持つわけにはいかない。どれほど些細なことでも言葉にしないと相手には伝わらない、と心しておく方がいい。「愛している」と言わない限り、残念ながら熱き恋心も相手に伝わらないのだ。
「おはよう、という朝の挨拶よりもずっとずっと大切な言葉があるでしょう」と妻は涙を浮かべて訴える。「どうして『愛している』のひと言で一日を始められないの」
目は口ほどにものを言えないのである。だから朝っぱらから吞気に「おはよう」と妻に挨拶をしている場合ではないのだ。