1998年の平和な1日

 町内会の集まりから妻が帰ってきた。
 ソファーにだらしなく座ったまま「おかえり」と玄関に向かって声をかける。
「ただいま。今日は暑いわね」と妻が答える。
(*注 この文章では妻との会話はほとんどがインドネシア語で行なわれている。子どもたちは、妻とはインドネシア語、僕とは日本語で話す。その場に僕と妻の二人がいる場合は、子どもたちはインドネシア語を使う。妻は日本語があまりわからないからだ。この家族間言語環境は24年後の現在2022年でも変わらない)
 ここインドネシアは熱帯にある常夏の国だから毎日が暑い。猛暑日と熱帯夜がほぼ1年じゅう繰り返される。そういう酷暑の気候のなかで、インドネシア人が「暑い」と口にすれば、それは想像を絶する暑さを意味する。熱帯生まれの熱帯育ちが音を上げる、耐えられないほどの強烈な暑さである。気温は体温をはるかに超えているから、理論上は誰かと抱き合ったほうが涼しく感じられるはずだ。
 手の平で顔を扇ぎながら居間に入ってきた妻は、ソファーの僕に笑顔を向けると、
「あら、指輪はどうしたの? 外しているの?」と訊いてきた。(それにしても、よくもまあ一瞬で指輪の有無に気がつくものだ。感心するほどの鋭い観察眼である。あるいは、普段とほんの少しでも違っている部分があれば即座に感知できるようになっているのだろうか。ああ、おそろしや)
「指輪?」
 僕は驚いて左手の指を見る。指輪になんて、今の今までまったく意識が向いていなかった。目の前には短くずんぐりした指があるだけだった。
 ない!
 猛暑のなかだというのに、たちまち背筋が凍りついた。
 確かに嵌めていたはずの指輪が三つともない。薬指に結婚指輪、そして小指に子どもたちそれぞれの名前入りの指輪が二つ。眠るときと風呂に入るとき以外は外したことのない指輪が消えている。
 これは外さないよ。指輪を三つもしていたら浮気なんて絶対にできないよね。妻と子どもに見られているようなものだから。ははは。
 そうやって誠実さをアピールしてきた指輪。僕の絶対的味方である三人の象徴だった大切な指輪。それが三つともなくなっている。
 そんな馬鹿な。
 あわてて立ち上がり、すべてのポケットに手を突っ込み、ソファーのクッションと背もたれの間に手を差し込み、四つん這いになってソファーの下を覗き込む。
 ない。
 あわてて家じゅうの探索に取りかかる。
 どこかにある。必ずある。ないはずないじゃないか。ははは。余裕の笑みを浮かべようとしたけれど、顔が強張っただけだった。
 居間と寝室を隅から隅まで探し回り、次に客間、そして浴室と洗面所で這いつくばる。見つからない。子ども部屋、台所。こんなところにあるわけがない。玄関、庭。まさか。
 半時間ほど大汗の冷や汗をかいたあとで、僕は力なく妻に告げる。
「指輪が消えた」
 妻は、やれやれという表情をして、ため息混じりに応えた。
「消えるわけないでしょう。どこかに必ずあるはずよ。朝からの行動をよく思い出してみて」

 朝六時、爽快な気分で目が覚めた。実に久しぶりの熟睡だった。
 それまでの三日間は酷いものだった。
 夜ごと、僕はソフトボール用の金属バットを手に、玄関脇にへばりついて夜通し警戒態勢を敷いた。(自衛のためとはいえ包丁などの刃物を手にするのは憚られた。そうすると家には武器になりそうなものはバットとフライパンくらいしかなかった)
 暴徒が襲ってくる。夜の闇に紛れて、民家を襲ってくる。
 そんな噂が流れていた。
「心配するな。君と子どもたちは絶対に守る。何が起ころうと、必ず守り通す」
 そう妻に伝えて、僕は金属バットを握りしめ徹夜する。バイクが通るたびに鼓動は高鳴り、下半身がぞくぞくしてトイレに逃げ込みたくなる。
 本当に暴徒が襲ってきたら、バット一本でどれだけの抵抗ができるだろうか。大挙して押し寄せられたら、ひとたまりもないだろう。それでも命を懸けて、それこそ捨て身でバットを振り回して戦うつもりだ。この家の中で暴力に力で抵抗できるのは僕しかいないのだ。ほんの微力にしかすぎないけれど。
 正直に言うと、怖かった。怖いよおおお、と大声で叫びたかった。どうしてこんな目に遭わなければいけないんだ。日本に帰りたい。平和で安全な日本に今すぐにでも戻りたい。
 いや、待て待て。インドネシアに居続けることを選んだのは自分じゃないか。きちんとその責任を果たすんだ。家族を危険から守り、そのうえで家族の絆を深める。その覚悟を持ってインドネシアに残ることを選んだではないか。
 それにしても、命の危険を心配しなければいけない夜を一体いつまで過ごさないといけないのだろう。まさか、自分がこんな事態に放り込まれるとは予想もしなかった。
 その時、何かが屋根を伝い歩くような物音がして、僕はハッとしてバットを構える。全身がこわばって手が震える。僕は頭をぶるぶると振って、意識をしっかりと持とうとする。戦うんだ。自分の命を懸けてでも妻と子どもを守るんだ。そう決心したではないか。
 ガサッと音がして、猫がのんびりニャーと鳴いた。
 ふううう。なんだよ、驚かせるなよ。まったく緊張するぜ。
「こんな田舎にまで略奪に来る暴徒なんていないわよ」
 妻はそう断言して、子どもたちと一緒に毎晩ぐっすりと眠った。(もちろん、賊を撃退してくれる頼もしい夫がいたからこそ熟睡できたのである。僕がベッドで寝ていたら、きっと妻は不安で眠れなかったはずだ、と思うけどなあ、自信はないけれど)
 1998年5月、インドネシア共和国。首都ジャカルタで暴動の嵐が吹き荒れた。
 中心街のビルは放火され炎に包まれ、ガソリンスタンドが次々に爆発し、罪のない人たちがむごたらしく虐殺されていった。商店やデパートは略奪の限りを尽くされ、見るも無残な姿を晒していた。
 黒煙が立ち昇るジャカルタの街を映した暴動のニュースが日本でも流れたようだ。母親が心配して国際電話をかけてきた。インドネシアでの生活が10年ほどになっていたが、母が電話をかけてくるなんて初めてのことだった。
「戦争が起こったの? 早く逃げておいで」
 母は涙声でそう訴えた。
 シンガポールに住む友人は電話口で怒りの声をあげた。
「なんでまだジャカルタにいるんだ? 今すぐシンガポールの俺のところに家族を連れて来い」
 ジャカルタ在住の外国人は大あわてで次々と出国していった。もちろん日本人も、取るものも取り敢えずインドネシアから続々と逃げていった。航空会社は臨時便を飛ばし、日本政府は自衛隊機による邦人救出すら検討していた。状況はそれほど切迫していた。
 外務省から最大の警告レベルである退避勧告が出ているなか、ジャカルタに残り続けた日本人もいる。僕がその一人だ。勤めている会社が零細企業で、とても従業員と家族の緊急帰国費用を捻出する余裕がなかったことも一因ではある。
「自己負担で帰国か、自己責任で残るか」と情けない選択肢を会社側は提示した。かなり痛い出費だけど自己負担できないことはない。命は金に換えられないことぐらい僕だってわかっている。自分だけでなく、家族全員のことを考えなければいけないのも承知している。
「いよいよ危なくなれば、自衛隊機が来る。それに乗ればタダだ」
 そう助言してくれる人もいた。会社の上司だ。
 なにも日本まで行かなくてもいい。インドネシアから脱出できればいいのだ。近場のシンガポールなら航空券代も安い。転がり込める友人宅もある。でも、片っ端から航空会社に電話したけれど、どこもなかなか繋がらず、やっと通話できても「全ての便が満席です。三日後なら空席があります。料金は……」とハイシーズンより五割増しの値段を告げてきた。
 頭を抱える僕に妻が言った。
「暴動を起こしたのは、ほんの一部の心ない者たちだけ。一週間ぐらいはゴタゴタするけど、私たちの住む、この郊外の地域まで騒乱が波及することはないわよ。この村でじっとしていれば、そのうちに嵐はきっと通り過ぎる」
 インドネシアのことはインドネシア人が一番よく知っているはずだ。冷静な分析なのか、単なる希望的観測なのかわからないけれど、取り敢えず妻を信じよう、しかし……とまだ踏ん切りのつかない僕に、妻が訴える。
「とても恥ずかしいことになってしまったけれど、インドネシアは私の母国。こういう時だからこそ、ここにいたい。外国へ逃げていくなんて自分の国を見捨てるようなことはしたくない。それに、騒ぎが落ち着いたあと、インドネシアを再建する力にもなりたい」
 妻の愛国心に心打たれ、迷う僕も決断できた。僕たちの子どもにもインドネシア民族の血が流れている。母の祖国を見捨てるようなことを子どもにさせるわけにはいかない。僕には愛する妻と子を危険から守る義務があるとともに、家族の絆を深めるために努力することも求められているのだ。
「わかった。インドネシアに残ろう」
 僕は高らかに残留宣言を伝えた。妻は心底ほっとした表情を見せた。
 とは言っても「暴徒が夜間に襲ってくる」である。夜が近づくにつれ、不安で押し潰されそうになる。テレビは無残な街の姿を繰り返し放映していた。銃を構えて警戒する国軍兵士の横をデパートで略奪した冷蔵庫を抱えた二人組が通って行く。その後ろには、ベッドのマットレスを引きずる老婆が続いた。
 しっかりと門を施錠し、僕は玄関脇の窓に張りついた姿勢で夜を明かす。金属バットが自衛のための武器だ。オートバイが何台か通る。こんなややこしい時に、いったい誰が深夜にバイクに乗って、どこへ向かっているんだと腹を立てながら夜が更けていく。
 ようやく空が白み始める頃、子どもたちが起きだしてきた。
「幼稚園はお休みだよ」
「どうして?」
「悪い人が街の中でドロボウをしたり、暴れたりしているからだよ」
「おとうさんの会社は?」
「会社もお休みだよ」
「やったあ。じゃあ、たくさん遊べるね」
 遊ぶといっても外には出られないので家の中で過ごす。徹夜明けのふらふらの体とヤケクソの気分で子どもたちに付き合う。
 仕事はいつになったら再開できるのか見当もつかない。しばらく様子を見る。取り敢えずそれだけは決まったけれど、「しばらく」がいつまで続くのか見通しはまったく立たない。
 我々のちっぽけな会社は日本人相手の仕事をしているので、日本人が戻ってこないことには話にならないのだ。日本人学校が早々と一ヶ月の臨時休校を決定しているくらいだから、慎重な日本人がジャカルタに再び集まってくるのは、かなり先のことになるだろう。つまり、かなり先まで仕事がないということだ。
 ぼんやりした頭で子どもと遊び、短い昼寝をして、また子どもと遊び、ソファーで絵本を読みながら眠ってしまい、そして夜がまたやって来る。今夜も金属バットが相棒だ。
 暴動は軍の出動で収まりを見せていたが、小規模の略奪・暴力事件は頻発していた。自衛団が至る所で結成されたが、自衛団同士が縄張り争いで血を流すという奇妙な事件もあった。要するに、みんな混乱していたのだ。
 それでも三日も経つと、ようやく街は落ち着きを取り戻し始めた。要所に装甲車が配備され、軍が二十四時間警戒態勢を敷いたおかげだ。テレビで国軍最高司令官が「治安の回復は順調に進んでいる、国民はもとの生活に戻るように」と声明を発表した。
 おそるおそる外出して会社に向かってみる。確かに街は平穏を保っていた。装甲車の前で若い軍人が煙草をふかしながらチェスに興じている。暇になっているのだ。
 会社に集まった我々は、お互いの無事と将来の不安を確認しあうことしかできなかった。しばらく様子を見よう。たまには会社に集まろう。仕事はないけれど。はああ。我々は何度も深いため息をついた。
 それでも最小限の安全が確保されたことは喜ばしい。イスラム聖職者を中心に「略奪した物品を返そう」キャンペーンが始まった。社会が少しずつ冷静になってきていた。
 これでもう深夜に金属バットを握りしめる必要もないだろう。僕は三日ぶりにまともな眠りに就くことができた。

 朝六時、爽快な気分で目が覚めた。実に久しぶりの熟睡だった。
 妻は台所で朝食を作っている。
「今日から幼稚園が始まるわよ」
「もう始まるのか。もう少し様子を見てからでもいいんじゃないか」
「だいじょうぶよ。もとの生活に戻るようにって国軍最高司令官が言っているのよ」
 もとの生活? 一体どうやって戻るというんだ。この数日間であまりにも多くのことが損なわれた。この国は深い傷を負ってしまった。国際社会の中で悪化したインドネシアの信用を取り戻すのは容易ではない。汚名返上まで数年はかかるだろう。
「私は町内会の集まりがあるから、子どもたちの送り迎えをよろしくね。どうせ暇でしょ?」
 確かに。時間だけはたっぷりある。僕はもとの生活には当分戻れそうにない。しばらく様子を見ると決まったのだ。
 それに対して、妻は忙しい。町内会で早急に今後のことを話し合うのだ。国軍最高司令官が命じたように、もとの生活に戻るために何をどうすればいいのかを議論するのだ。
 もっとも、たいした案は出てこないだろう。ただ、そうやって集まっておしゃべりに興じるのが大切なのだ。さほど意味のない町内会の集まりは普段の生活の一部だから、これがもとの生活に戻る第一歩となる、くらいの気持ちでいるのかもしれない。
 七時半に家を出た。子どもたちはインドネシアの一般的な幼稚園に通っているので、自家用車では送れない。そんなことをすると、金持ちだと知られて身代金目当てで誘惑されるかもしれない、と妻が脅かしたことがある。
 そんなことはないとは思うけれど、自家用車で幼稚園児を送り迎えするなんて贅沢は止めたほうがいいに決まっている。そんなことをしていたら確実に幼い子どもはスポイルされて、ろくな人間にならない。
 若いときの苦労は買ってでもせよと言うけれど、幼い時の苦労は苦労と認識すらされない。幼児にとっては苦労なんてものはないのだ。自分が経験することだけが世界のすべてなのだから。
 ということで、ミニバスに乗って幼稚園に向かう。十人も乗れば満員になる乗り合い自動車だ。バス停などはなく、どこからでも乗れるし、どこででも降りられる。便利な庶民の足である。
 満席のミニバスが何台か通過し、ようやく空きのある車が止まってくれた。といっても、腰掛けるスペースは一人分しかない。僕が座って、二人の子どもを膝に乗せる。幼稚園まで五分間の辛抱だ。
 どうやら、多くの人が学校や仕事に向かい始めたようだ。ミニバスがこんなに混むなんて、普段通りの朝みたいだ。みんな、もとの生活にもう戻ったのか? さすが、国軍最高司令官の言葉には重みがある。
 窮屈な姿勢で子ども二人を抱えながら僕は暗い気分で座っていた。父親に幼稚園まで送ってもらって喜びいっぱいの子どもたちの気持ちはわかるけれど、こんなことをいつまでも続けるわけにはいかないのだ。
 収入の道が閉ざされては、この子たちも学校に通うことが困難になる。上の子は来年日本人小学校に入学する。学費は日本の私立校なみに跳ね上がる。幼稚園のように、ひと月二百五十円とはいかない。その百倍の月謝がかかってしまう。それでも日本の学校で教育を受けさせてやりたい。
 この子たちは日本国籍を持った日本人と法律で決められている。もちろん、僕もそう願ったのだけれど、そうと決まった以上は日本人としての教育をしっかり受けさせてやりたい。
 そうやって日本人として暮らすには、当面は貯金を切り崩すよりなさそうだ。収入が見込めない時期がどれほど長く続くか予想できないけれど、場合によっては貴金属品など売れるものを売り払う必要も出てくるかもしれない。それでも、何よりも子どもの教育を優先しなければ。
 いずれにしても、しばらくは厳しい生活が続くだろう。やれやれ、どうしてこんな目に遭わなければいけないんだ。僕はただ家族と一緒にのんびりと暮らしたいだけなのに。
「おとうさん、着いたよ」
 子どもの声に、ハッと我に返る。ぼんやりと考え事をしてしまった。
 まず子どもたちを降ろし、あたふたと三百ルピアを運転手に払って、狭い車内から身を屈めて外へ出る。三百ルピア、日本円にして約四円。大人一人分の料金だ。子どもたちは僕の膝に乗ったから無料。
 二人を幼稚園に送ってから近くの屋台で時間を潰すことにする。幼稚園は十時半には終わる。いちど家に帰って、また迎えに来るのも面倒なので、そのまま待つことにした。
 屋台のベンチに腰掛け、コーヒーを注文する。先客のおじさん二人がサッカーワールドカップの話で盛り上がっていた。自分の国が出場しないというのに、よくこれだけ熱心になれるものだと感心する。でも、なんでこんな大変な時にワールドカップなんだ。もっと他に考えるべきことはたくさんあるじゃないか。
“Orang Jepang ya?”(日本人、だよね?)
 おじさんのひとりが笑顔で話しかけてきた。そして「日本は初めてワールドカップに出場するんだよな。すごいね」と親指を立てた。「でも、初戦がアルゼンチンとは難敵だな」ともうひとりのおじさんが言った。「もちろん同じアジア人として日本も韓国も応援するよ」「サウジアラビアとイランはアジア代表というよりも、同じイスラムの国として応援するね」
 おじさんたちはそんなサッカーの話題をほぼ二人で話した。インドネシアによくいる温厚そうな人たちだ。いつもニコニコと明るい表情をして、柔和な性格で大声を出すこともない。
 こういう人たちは暴動とは無関係だったと信じたい。妻の言う「ほんの一部の心ない者たち」が暴動を直接引き起こしたのは確かなことだが、騒乱に乗じて商店などの略奪に加わった人たちを加えると、「ほんの一部」は数倍に増えるだろう。
 普段は温厚に暮らしている市井の人たちのなかにも何らかの形で騒乱に加担した者もいるかもしれない。そう考えると、インドネシア人に対する見方も残念ながら少々変わってしまう。
 もっとも、日本人だってアジアへの侵略戦争に多くの人が関係した。普段はやさしい人もひとたび戦場に赴けば鬼と化した例も少なくなかったはずだ。
 妻の祖父はロームシャ(労務者)だったという。日本軍に強制労働で駆りだされ、そのまま二度と帰ってこなかったらしい。だから妻の母親は日本人に対して悪い印象しか持っていなかった。それはそうだ。自分の父親が日本人に連行され、おそらく過酷な労働の末に命を落としたのだから。
 親日国といわれるインドネシアでも、日本の敗戦後50年以上が経つ今でも日本統治時代の残忍さは忘れられていない。いや、100年経とうが200年経とうが、歴史の事実として残るのだ。
 おじさんたちのサッカーの話を聞いているうちに幼稚園が終わる時間になった。僕はジーンズの尻ポケットから苦労して財布を抜き出すと、千ルピア札を出してコーヒー代を払った。五百ルピア硬貨のお釣りが来た。コーヒー一杯約七円。
 帰りのミニバスは空いていた。子どもたちも席に座ったから料金を払う。三人で五百ルピア。胸ポケットに入れておいた、さっきの屋台の釣り銭をそのまま払う。
 家に着くと、下の子が絵本を持ってきた。ソファーに並んで腰を掛け、もう何十回も読んでいる絵本を開く。
 何をやってもうまくいかないカバ君が最後にこう呟く。
「ええことおもいつくまで ひとやすみ
 ま、ぼちぼちいこか ということや」
 そうだ、そうだよな、と僕はカバ君に賛成する。今は、ひとやすみの時だ。ぼちぼちいけばいい。少なくとも金属バット片手に、最悪の事態を心配しながら夜通し暗闇を睨みつける必要はもうないのだ。
 そう、事態は確実に良い方向に向かっている。たとえ、もとの生活に戻るまで長い時間がかかろうとも、命の心配をしなければならないおぞましい状況は脱したのだ。今さら焦る必要はない。関西弁のカバ君の言うとおりだ。
「ま、ぼちぼちいこか、ということや」
 僕はソファーにもたれた。娘は庭で遊ぶ兄のところへ行ってしまった。たくさん遊べ、子どもたち。おとうさんもややこしい大人の世界から離脱して、君たちの世界にしばらくお邪魔することにするよ。そのほうがはるかに楽しいしね。
 そんなことをぼんやり考えていると、妻が帰ってきた。町内会の集まりが終わったのだ。
 妻の顔は晴々として明るかった。インドネシア人特有の楽天性と明るさを持つ妻は、少々の混乱ぐらいではビクともしない。僕があれこれと悪い面をひとつひとつ数え上げてはため息をついている間、ほんの少ししかない良い面を見つけ出しては嬉々としている。その明るさにどれほど救われてきたことか。
 妻はソファーの僕に笑顔を向けると、
「あら、指輪はどうしたの? 外しているの?」と訊いた。

「なるほど」
 僕の話を聞き終えた妻は大きく頷いた。
「指輪の行方はわかったわ」
 妻はそういうと、大きな声をあげて笑った。目尻から涙をにじませ、腹を抱えて笑い転げた。こうなると妻は抑えが効かない。しばらく抱腹絶倒するばかりだ。それを黙って見ているよりない。もちろん、腹をよじって笑う妻の姿は僕にとっては幸せの象徴でもある。
 母親のけたたましい笑い声に驚いて、庭から子どもたちが家の中に入ってきた。
「おかあさん、どうしたの? 笑いキノコでも食べたの?」
 妻は目尻を指で拭いながら答えた。
「おとうさんはね、ははは、あなたたちとおかあさんのことをいつも考えてくれているのよ。ははは。いいおとうさんよ。あははは。感謝しましょうね。でも今日は、あなたたちのことを考えすぎて、ははは、指輪を、あははは、指輪をなくしちゃったの。あははは」
 子どもたちは母親が楽しそうに笑っているので、つられて一緒になって笑い出した。僕も、妻と子どもが幸せそうに笑っているので、何が何だかわからないけれど一緒に笑った。
 暴動が起こってからの暗い気分が、心の底から笑うことでたちまち晴れ晴れとした。ひとりだけ暗く沈んでいた僕も、なんだか自信が湧いてきて、理由もなく今後うまくやれそうな気がしてきた。笑う門には福来る、とはよく言ったものだ。
 家族はこうやって馬鹿みたいに笑い合っているのがいちばんだ。
 おとうさん、指輪なくしちゃったの。ははは。うん、うっかりしてね。ははは。おとうさん、いつも私たちのことを考えてくれてありがとう。ははは。指輪の行方を教えてくれよ。ははは。まだわからないの。ははは。おとうさん、食べちゃったんじゃないの。ははは。ぼんやりしてたのよね。あははは。どこにあるのか教えてくれよ。ははは。おかあさん、お腹が空いたよ。ははは。今日はね、おとうさんがラーメンを作ってくれるって。
 ははは、と僕は台所へ向かう。
「できたら呼んでね」
 子どもたちはまた庭へと出て行った。子どもは忙しい。いくらでも遊ぶことがあるから、ラーメンができるのをぼんやり待っているわけにはいかないのだ。それでいいんだ、子どもたち。たくさん遊べ。ラーメン作りはおとうさんに任せておけ。ついでに、ぼんやりするのもおとうさんの得意技だ。
 ラーメン作りの準備をしていると、妻がやって来て、そっと後ろから僕に抱きついた。僕の背中に顔をくっつけてまだ笑っている。ひとたび笑いのツボにはまると、なかなか抜け出せない。
「名探偵さん、消えた指輪の謎を教えてよ」
ネギをまな板に載せて僕は頼んだ。
「どこで失くしたかわかれば、すぐにでも探しに行きたいんだ」
「指輪はもう戻ってこないわよ」
 妻は僕の体に巻きつけた両腕に力を込める。
「指輪を失くしたのは残念だったけれど、あなたが私たちのことを本気で想ってくれていることがよくわかった。それが私にとっては一番重要なことなの。ふふふ。夜中、窓におでこをくっつけて立ったまま眠っていたわよね」
「ええっ? 眠っていた?」
「そう。毎晩あんなことをやっていたら体がもたないでしょう。それなのに、俺が守るって頑として続けるんだから。心配で何度も見に行ったのよ。でも行くたびに眠っていたから少しは安心したけれどね」
「そ、そうだったのか」
「でも、うれしかった。私たちのことを必死で守ろうとしてくれて。今日だって、私たちのことを想って、あれこれと考えごとをしていたから指輪を失くしたんでしょう」
「う、うん」
「私たちを想う気持ちはなくさないでね。それだけで充分だから。指輪なんてどうでもいいのよ。だから、もう気にしないで」
 庭から子どもたちの歌声が聞こえてくる。
「青い空と、おかあさんとおとうさんがいれば、それだけでいい」
 くまのプーさんの挿入歌の替え歌だ。天真爛漫な子どもたちの声がやけに心に沁みてくる。玉葱ではなく長ネギを刻んでいるのに涙がにじんでくる。
 妻がくすりと笑った。
「指輪はね」
 どうやら、ようやく名探偵が推理を披露してくれるらしい。
「百ルピアコインと間違えて、ミニバスの運転手にやってしまったのよ。ミニバスの中で、あなたは暗い気持ちで考えごとをしていた。着いたよ、と子どもたちから声をかけられてあわてて降りた。その時に無意識に指輪を三つ外して、百ルピアコイン三つのつもりで運転手に渡してしまったのよ」
 僕はその時の状況を思い出そうとした。そういえば、硬貨は持っていなかったはずだ。コーヒー屋台で尻ポケットから財布を取り出すのに苦労した。あの窮屈なミニバスの車内で財布を引き出した覚えはない。仮にもし、そうしていたならば、千ルピア札で支払っていて、釣りの700ルピアをコインでもらっているはずだ。
「あなたは、ミニバスの中でお金のことを考えていた。子どもたちの学費について心配していた。このまま仕事がないと、日本人学校の月謝が払えなくなるって。きっと頭の中で目まぐるしく計算していたのよ。貯金を崩して、あれを売って、そうすればあと何年かは大丈夫かなと計算していた。
 子どもの声で現実に引き戻された時、モノを売って現金に換えるという考えが脳に残っていた。降りなければと焦ったあなたの頭は、モノを渡せば支払えると答を出したのよ。だから、あなたは無意識に自分が身につけていた金目のものを渡してしまった」
 なるほど。筋が通った推理だ。そして、やれやれ、だ。僕はいったい何をやってしまったんだ。ここ数日の異常事態の中で、そして極度の緊張状態の中で、僕は普段なら考えられないことを無意識にしていたのだ。なにしろ立ったまま眠っていたくらいだ。まったく、はははは、と笑うよりない。
「指輪のことはもう忘れなさい。ミニバスの運転手へのボーナスだと思えばいい。でも、私たちを想う気持ちは、ずっとずっと忘れないで。それがなによりも大切なものだから。それさえあれば私は幸せに生きていける。子どもたちもきっとそうに違いない」
 もちろん、僕だってそうだ。この世でいちばん大切な妻と子どもを象徴する指輪を不注意から失くしてしまったけれど、妻と子どもたちに向ける愛情にはいささかも変わりはない。大袈裟ではなく、命を懸けてでも守るつもりだ。いつでも金属バットを握る覚悟はある。
 僕は体に後ろから巻かれた妻の腕をほどき、くるりと回れ右をして妻と向かい合い、両腕で妻の体をゆっくりと抱き寄せ……。
「おとうさん!」
 二人の子どもが台所に入ってきた。
「ど、どうした?」
「ラーメンはまだできないの? お腹ペコペコだよ」

 2022年、平和を願って

 小説家の乾ルカが2020年2月20日付の北海道新聞にこんなエッセイを寄せている。
「間違いないのは、いつかこのウイルスも収束する。どんな物事にも、必ず終わりは来るのだ。全人類が罹患し滅亡するという、最悪の形だとしても。
 すべてには終わりがある。この事実は厳しく悲しい。しかし、一方で救いでもある。楽しいことも終わるが、苦しみだって終わるのだ。そして、たいていの人生においては、苦しみの比重のほうがおそらく大きい。終わりがあるからこそ、生きていけるのかもしれない」
 この文章の切抜きを私は仕事場の机の横に貼り、折を見ては読み返している。そして、良いことも悪いことも永遠には続かない、と何度も自分に言い聞かせている。コロナ禍でもう三年近くも会うことの叶わない、ジャカルタに暮らす妻を想いながら。
 この異常な状態にも終わりが来て、妻と再会できる日が必ず来る。おたがいの温もりをわかち合える時は来る。そう自分に言い聞かせている。
 どれほど悲惨な状況でも終わりがある。そう、終わりが来るという希望があるからこそ、辛くても生きていける。希望さえあれば、人間はどんな苦しい時でも生きていけるものだ。
 きっと明日は今日よりも良いものになっている。きっと未来は今よりも状況は向上している。
 とにもかくにも、希望だけは手放せない。 

 98年のジャカルタ暴動の後、私が働いていた会社は数年に渡って打撃から立ち直ることができず、大幅に減った給料がさらに減り続け、生活は苦しくなっていった。とは言っても、食べることに不自由はしなかったし、贅沢な生活習慣を避けられたという点では問題なかったどころか逆に良かったのかもしれない。
 暴動によって終わりを告げたのは、それ以前のたかだか「経済的に余裕ある生活」だけだった。本当にたったそれだけだ。そんなものはなんでもない。失ってもどうでもいいものだ。
 それよりもずっと大切なのは家族との幸せな時間だ。それには変わりがなかった。暴動ごときで終止符を打たれるはずがない。暴動ごときで家族の心がバラバラになってたまるか、である。
 もっともそれは、楽観的な性格で質素な暮らしを厭わない明るい妻のおかげであり、無邪気な子どもたちの言動が心を晴れ晴れとしてくれたおかげでもある。私ひとりだけであったなら、暴動の嵐に吹き飛ばされて、すごすごと日本に逃げ込んでいたかもしれない。人生の大切なものを放り出して、ただ無難に生きることだけを目的にして。
 98年のジャカルタ暴動は自分の人生にどれほどの影響を及ぼしたのだろうか。人生の節目を迎えるたびに私は考える。
 たとえ暴動によって経済的余裕がなくなろうとも、いま振り返ってみると、暴動前後の数年は二度とありえないような夢のように楽しく幸せな日々だった。それほど二人の幼い子どもと良きパートナーの妻との田舎生活は、心が浮き立つような幸福な暮らしだった。
 子どもは幼いときのかわいらしさで一生分の親孝行をしてくれるという。そんな天使のような子どもたちと共に暮らせた年月は私と妻にとっては一生の宝物だ。たとえ暴動を間に挟もうとも、その宝物はいささかも輝きを失わなかった。
 もちろん、そんな幸せに満ちた生活にも終わりが来る。すべてには終わりがあるのだ。子どもはいつまでも幼いままではいられない。日々成長し続け、時には親の意に沿わない言動をするようになる。それでも一生分の親孝行を既にしてもらった身としては、子どもが独り立ちできるよう見守り続けていくだけだ。
 2学年の違いで兄妹二人とも日本人学校に入学し、中学卒業まで9年間を過ごした。その間、自分専用のタオルケットを教室に常備しておかなければならなかった。いつまた暴動が起こり、帰宅することが出来ずに学校に緊急宿泊しなければならなくなるかもしれないからだ。タオルケットは宿泊のための備えであり、日本人学校は米と塩と飲料水を大量に備蓄するようになった。
 実は98年暴動時に日本人学校の下校スクールバスは一度校外に出たが、街なかを走るのはあまりにも危険なので学校に引き返してきた。全校生徒・児童は緊急に校内宿泊を余儀なくされた。かろうじて備蓄してあった米と塩でお結びを作って低学年児童の夕食とした。その時の反省から米と塩と飲料水の備蓄量を全生徒・児童に行き渡るように数倍に増やしたのだった。
 幸いにも二人とも校内臨時宿泊の経験をすることなく無事に義務教育を終えて、日本の高校へと進学した。いかに、98年の暴動がインドネシア史上稀な出来事であったかが窺えるというものだ。日本人学校の歴史のなかで「児童・生徒が学校に宿泊せざるを得ない」状況は98年が最初で(2022年現在)最後である。
 子どもたちが日本人学校に通っている間、私の会社はなんとか持ちこたえ「ビザの斜塔」と呼ばれるようになった。倒れそうで倒れない、という意味だ。
 あの暴動を経験した私たちは、少しのことではビクともしなくなった。理不尽にも命を奪われる心配すらしたあとでは怖いものはほとんどなくなっていた。捨て鉢ではないけれども、死んだ気になれば何でもできそうに思える。生きていれば何とかなる、何とでもなる。世界は滅多なことでは終わらないのだ。

 前述の乾ルカのエッセイが書かれてから丸2年が過ぎた。新型コロナウイルス感染症との戦いが3年目に突入したのである。
 乾ルカが「いつかこのウイルスも収束する」と書いた時、確かにそうだと全面的に賛成したが、まさかこれほど長期に渡って出口が見えなくなるとは露ほども想像していなかった。東京五輪・パラリンピックが延期と決まった時ですら、ここまで非常事態が長引くとは思いもしなかった。なにもかもが想定外に進んでいった。
 インドネシアで暮らす妻と3年近くも会えなくなるとは、どうすれば想像できただろうか。まさか、まさか、で3年という年月が過ぎてしまった。それはあまりにも哀しい歳月だった。
 新型コロナウイルスが蔓延し始めた頃、感染症対策をまさに「戦争」と呼んだヨーロッパの国の指導者がいた。命懸けの戦争だから、日常生活にある程度の制約が加わるが、皆で我慢を重ねて、自分自身や愛する人、さらには周りの人びとを自らが守るという決意を持とう。そんな論調だった。
 ワクチンの開発でコロナ禍が一段落しかけた2022年に、今度は本物の戦争が起こってしまった。命の心配をしなければならないことは共通しているが、あまりにも露骨な侵略戦争は無作為に一般市民を巻き込んでいった。
 この文章を書いている2022年6月1日時点では、ロシアによるウクライナ侵略戦争に終わりは見えない。ロシア軍の攻撃でウクライナの民間人が被害を受ける日が続いている。市民は命の心配をしなければならない毎日を余儀なくされているのだ。
 命をかけてでも家族を守ると決意を固めている男たちはきっと多いはずだ。でも、金属バットを握りしめても最新の殺人破壊兵器の前では何の役にも立たない。それが戦争の現実だ。
 ウクライナ兵士たちはそれこそ命懸けで祖国を守ろうとしている。愛する人を死守する決意を固めている。だからこそ、ロシアのミサイル攻撃によって黒煙を上げる街の映像を目にするたびに心が痛む。
 戦争が起こったのかい、早く逃げておいで。まだそこにいるのか、家族を連れて俺のところへさっさと来い。
 自分を気にかけてくれる人からのそんな言葉を心の支えに、戦時下の怖ろしい日々に耐えているウクライナの人がたくさんいるに違いない。
 犠牲者の数は増え続け、街は破壊されていく。もとの生活に戻れる日など来るのだろうか。そんな絶望感を抱えている人は少なくないはずだ。それでも、懸命に侵略者と戦い、祖国の再建の日まで奮闘し続けようとするウクライナの人たちを心から応援したい。
 Удачі Україні!
 (発音はUdachi Ukrayini、意味は「ウクライナに幸運を!」あるいは「がんばれ、ウクライナ!」)
 プーチンが始めたこの戦争にも必ずや終わりが来る。
 その終わりがウクライナの人びとが願うかたちになることを祈るだけだ。
 家族が皆で笑い合える、平和で幸せな日々がウクライナに早く訪れますように。
 ウクライナに平和を。
 Удачі Україні!

記:英語科 佐々木晋