子育て・受験にまつわるよもやま話―No.10(最終回) 「ゲーム」にまつわる子どもの成長
今、小学生、中学生、更にはその上の学年、大人の世界もいわゆる「ゲーム」にそまっている?
勿論子どもの場合家庭環境によっては全く「与えない」といった家族の選択をしているところもあるかもしれませんが、少なくとも子どもたちの日常には「ゲーム」が深く入り込んでいます。
「ゲーム」といっても守備範囲は広く、まずはユーチューブで見られる「ショートドラマ風?」から始まって今は登場人物を想定してお互いに関わっていく(一昔前のようないわゆる戦いだけではない)ロールプレーイング形式のもの、このとき驚いたことに子どもたちは互いにそばにいなくてもiPhoneの画面を通じて同時プレーができ、「ゲーム」が自分の部屋の暗闇(とは限らないが)の中での孤独な遊びではないのです。友達同士にぎやかにしゃべりながら、しかし体はそれぞれのうちにいるといったプレーも。
このような状況がごく日常の姿で、1日に4時間も5時間もだったら、親御さんにとってはちょっと心配、いやかなり心配なのではないでしょうか?頭からやめるよう言ったり、取り上げたり、時間を決めたりと、勉強をやらせなければならない年代の子どもにはあの手この手の手段を講じて何とか学習させているというのが現状かもしれません。
振り返って、子どもと「ゲーム」の歴史は戦後生まれの私たち年代から始まっているといえます。当時の「ゲーム」はテレビ、それこそ夢中になってかじりつく日々で周りや親は心配そのもの、世間も「テレビっ子」は今後どうなるのか?と対応は冷やかで懐疑的でした。その後に蔓延した「ファミコン」、これらに夢中になった子ども時代を過ごした人もいまや子どもの親御さん。こう考えてみる「あの時、あのように夢中になった日々を過ごしたこと」が、その後大きな支障として人生に悪い影響を与えただろうか?と。
「そんなことはなかった」と今振り返っても言えると思うのです。それよりもあの時、何かに「夢中になれたこと」、「とことんやれたこと」という記憶の中での「充足感」が強く残っているのではないでしょうか。その後への影響と考えるならば、子供時代に「物事に夢中になれる」体験をしたことでしょう。
とはいえ、子どもはまだまだ未熟な成長過程、ゲームにはまって見境いない姿を、親は「注視」しつつ「全面否定」ではなく「部分否定」を駆使、また日常のやるべきことをやってから「ゲーム」に勤しむといった基本的「生活習慣」のもとで、常に子どもをリードしていくのが重要な役割なのかもしれません。
記:事務局 福島喜久