検索ワードと私②

音楽のサブスクリプションの強みは、何といっても検索すれば流石に全てとは言わないが大抵のものが引っかかることだろう。
しかし、自分がかつて好きだったあの曲もこの曲もと思っていても、検索ワードを入れるのは自分である。知らない曲は勿論、名前を思い出せないあの曲については全く聴けないのである。

秋の最初のうちはYoutube Premiumの無料体験を使って、Apple Musicで聴けないものを探しに行っていた。Youtube Premiumでは各種サウンドトラックもあるし、King Crimsonも聴ける!

が、結局すぐにまた飽きが来た。
結局どんなに莫大なデータがあったとしても、それを選択できるかは、利用する人間の検索能力に依存するのだ。

音楽のサブスクリプションにはサジェストというものもあって、「あなたは〇〇が好きみたいですね、××もいかがですか?」とご丁寧に提案してくれるわけだが、それもまだジャンルごとに分けられている程度に感じた。私がMaceo Parkerを聴いたことに対して「ファンクやR&Bはいかがですか?」とか、「R&Bが好きならこのチルい曲たちを聴いて!」程度だ。なかなか難しい。
これは逆に、提供する人間のグルーピング能力に依存するか、よしんばAIを使っていてもその学習能力は利用している人間の傾向からデータを集積していることだろう。

「インターネットで学習が根本から変わる」とか「学校がなくても必要なことはネットで検索する」なんてことは私が中学生のころから言われ続けていたが、今の時代はどうなのだろう。

今でも思い出すのは、
中学生のころ英語のスピーチコンテストに出ることになった際の出来事だ。
当時英語は赤点続きだった私はEXCITEというサイトの翻訳ツールを使って自分の日本語訳をそのまま原稿に使い大目玉を食らった。
その経験があるから今でも翻訳ツールなんていうものは信用していないところがあるけど、それでも精度は昔に比べて段違いだ。「精度は段違い」と自然に言ったが、これは一応でも英語の講師をやっているから分かるのであって当然中学生のころの自分だったら分からなかったろう。

インターネットで莫大な情報に触れられるようになった反面浮彫になったのは、結局個人がどこまで利用できるかというのはその人間の情報を検索・取捨選択する能力や、新しい情報を見つけられる感性・読解力に依存せざるを得ないという点だ。
それはエンターテイメントでも学習でも明らかだろう。
記:英語科 許士祐之進