人生を変えた教科書英語 “Hello, I’m Japanese.”

オーチャード通りはいつも華やかな雰囲気をまとっている。シンガポールを訪れる世界じゅうからの観光客がまずやって来るのがこの通りなのだ。渋谷卓(しぶやすぐる)ももう何度もオーチャード通りを歩き回っていた。といっても、特に目的はない。居酒屋に行って「とりあえずビール」と注文するようなものである。シンガポールに来て、やることがなかったら「とりあえずオーチャード通り」なのだ。
 しかし、残念ながら渋谷卓には「とりあえずオーチャード通り」の後が何もなかった。せっかく初めての外国旅行に来たというのに、胸を躍らせるものが見つけられないのだ。日本にいる知人への土産話になるような出来事は何ひとつ起こらない。卒業旅行でシンガポールに来て、二週間滞在する予定だが、最初の三日間ですでに退屈してしまった。あと十日もどうやって過ごそうかと途方に暮れたくらいだ。
四月からはサラリーマン生活が始まる。おもしろくもない仕事を黙々とこなし、淡々とつまらない毎日をすごしていく。そんな自分の姿を想像して、卓はため息をついた。これから延々と続くであろう規則正しく単調な生活にすでに辟易していた。
 自分だって冒険に満ちた一生を送りたい。でも、人生を賭けてまでやりたいことは見つからない。無難で平穏な生活が自分には合っているのだ、と卓は半分諦めている。そもそも、たぶん人生で最後となるであろう、長期(たった二週間だけど)の海外旅行にシンガポールなんて国を選ぶところが、堅実な自分らしい。
 ここはクリーンアンドグリーン、つまり清潔で緑あふれる国だ。治安もいいし、英語が通じる。たばこのポイ捨てはもちろんのこと、たかだかガムを噛んだだけで多額の罰金をくらってしまう。麻薬はごく少量でも所持しただけで死刑だ。とにかく公共秩序にうるさい国なのだ。ようするに冒険を求めるような国ではないということだ。友人のなかにはアフリカに行ったり、南米まで足を伸ばしたりする者もいる。そういう連中の勇気が羨ましい。せめて、初めての外国旅行にひとりで来たことが、かろうじて存在する冒険心のなせる業というところだろうか。
もっとも、ひとり旅と言えば聞こえはいいけれど、実際には四六時中一人で行動するのはおそろしく退屈だった。そもそも、どこへ行けばいいのかわからない。というよりも、行きたいところを思いつきもしないのだ。
 シンガポールに着いてちょうど一週間、その日も特に行きたいところがないので、相変わらずの「とりあえずオーチャード通り」を続けていた。若い日本人女性の観光客がたくさんいた。グルメシティでもあり、ファッションタウンでもあるシンガポールは、女性に人気があるのだ。みんな楽しそうにシンガポールいちばんの繁華街をぶらついていた。
 熱帯の暑さもひと息つく夕暮れ時、夜を控えて華やかさが増してきたオーチャード通りを行ったり来たりしながら、さて今宵これからどうしようかと卓は思案した。まずは、夕食をどうするかだ。この1週間はひとりで冷えたタイガービールを飲み、もっぱら馴染みのある中華料理を食べてきた。それはそれで満足したが、そろそろ一人飯をわびしく感じ始めていた。なんといっても、せっかくの外国旅行なのだ。外国人と外国語で会話をしながら外国料理を食べたいではないか。
 よし、思い切って女の子を夕食に誘ってみよう。和食ならシンガポールでも人気があるようだから、意外とうまくいくかもしれない。気の小さい自分にはナンパなんて日本ではとうていできないけれど、旅先の外国なら試してみるのも悪くない。旅の恥は掻き捨てというではないか。何事もまず挑戦だ。よし、せっかくだからシンガポーリアンの女の子に声をかけてみよう。よし、渋谷卓、行ってきます、と夕焼け雲に敬礼して気合を入れた。
 その時だった。まるで卓の決意を待っていたかのように、こちらに向かってインド系の女性が歩いてきた。長い黒髪に褐色の肌。笑みを浮かべた口元から真白な歯がのぞいている。そして、輝くような白目に黒曜石の瞳。映画のスクリーンから飛び出してきたかのような魅力的な女性だった。いきなり甘い声で歌い始め、体をくねらせて踊りだしそうだ。ジャンジャガジャンジャガと、卓の頭の中でインド音楽が鳴り響いていた。
 彼女こそ自分が求めていたひとだ。シンガポールへと自分が導かれたのは彼女と出会うためだったのだ。これは運命だ、と大袈裟なことを考えながら、頭の中のインド音楽ジャンジャガジャンジャガに合わせてステップを踏み、卓はその女性に近づき声をかけた。
“Hello. I’m Japanese.”(こんにちは。私は日本人です。)
 卓はハッとして口もとを押さえた。なんてことだ。中学の英語教科書の最初に出てくる例文が口から飛び出してしまった。もちろん教科書を馬鹿にしてはいけないことはわかっている。中学の教科書だってちゃんと役に立つ。しかし、この状況で「ハロー、アイムジャパニーズ」とは情けない。もっと気の利いたセリフがあったはずだ。
 ところが、驚いたことに、そんな教科書英語が彼女には好ましく響いたようだった。ジャパニーズと聞いた途端、彼女は弾けるような笑顔を卓に向けた。
「ニッポンジンデスカ? アイタカッタ」
 片言の日本語で彼女は確かにそう言った。
 会いたかった、と。
 おそらく初級日本語のテキストに載っていた例文をそのまま口に出したのだろう。でも、インド映画主演女優級の女性にそう囁かれて、鼻の下が伸びない男がいるだろうか。
 卓も一発でいかれてしまった。伸びきった鼻の下をどうしようもできないまま、彼女を夕食に誘うべくこう続けた。
“I love Indian cuisine. Would you show me the way to a nice Indian restaurant you’d recommend?”(私はインド料理が大好きです。お勧めの、おいしいインド料理店への行き方を教えてくれませんか?)
「インドカレー、スキデスカ?」
 彼女は驚いたように尋ねた。
“Of course I do. Indian curry is the most delicious curry in the world, so I do want to eat superb Indian cuisine which the gourmet city of Singapore is proud of.”(もちろんです。インドのカレーは世界一おいしいカレーです。グルメシティ・シンガポールが誇る極上のインド料理を食べたいのです。)
 なんだか英語が滑らかに口をついて出る。英語を何年間も勉強してきた甲斐があったというものだ。英語学習に費やしてきた膨大な時間と労力は、ただこの瞬間のためにあったのだと卓は感動すら覚えた。『必殺の暗記例文33×10』をしっかりやっておいてよかったとつくづく思った。
“I’m so happy to meet a Japanese who likes Indian cuisine.”(インド料理が好きな日本人に出会えるなんて、とてもうれしい。)
 彼女はうっとりした表情を浮かべた。
 シンガポールの人口構成は中国系の75%に対して、インド系は10%ほどしかいない。インド系は少数派で、なにかと肩身の狭い思いをしているに違いない。そんなところに、外国人から「シンガポールが誇るインド料理」なんて誉め言葉をもらったのだ。嬉しくないはずがない。
 すかさず卓はここぞとばかりに畳みかける。これまでに暗記した基本例文を最大限に駆使する時が来たのだ。
“You are just breathtaking. Forgive me if I’m wrong, but you must be a reincarnation of Draupadi in Mahabharata?”(あなたは息をのむほど魅力的だ。間違っていたらお許しください。あなたは『マハーバーラタ』に出てくるドラウパディーの生まれ変わりでしょうか?」
 彼女は大きな目をさらに見開いた。もう一歩で本当に甘い声で歌いながら身体をくねくねさせて踊りだしそうだった。
“And you are Arjuna? Anyway, you flatter me!”(そういうあなたはアルジュナかしら? それにしても、おじょうずなのね。)
“I’m not just saying that, but I really mean it. Everything about you is lovely. You are just amazing.” (口先だけの言葉ではなく本気で言っています。あなたのすべてがステキです。ただただ素晴らしい。)
 こんなお調子者の戯言は日本ではとても口にできない。だけど、いま卓は大胆な旅人になっていた。日常を超えて冒険を渇望する詩人だ。ドラウパティーに愛を告白するアルジュナだ。
“Arigato. May Japanese men be honest! Oh ya, you want to eat Indian cuisine, right? I know a good restaurant.”(アリガト。日本人の男性が正直でありますように。さて、インド料理を食べたいのよね。おいしいレストランを知っているわ)
“Would you like to join me? If I eat dinner with an attractive woman like you, outstanding meal will turn out to be perfect.”(ご一緒にどうですか? あなたのような魅力的なかたと食事ができれば、卓越した料理が完璧なものとなるでしょう)
“You are wrong. Indian curry is always first-rate even though you eat alone.”(あなたは間違えているわ。インドのカレーはひとりで食べてもいつでも最上よ)
 そんなやりとりの末、彼女は卓の誘いを受けてくれた。
 彼女のお勧めのレストランまで肩を並べて夕暮れの街を歩いていく。おたがいについて話を進めていくと、パーミンダ(”What a charming name! That’s the most beautiful name I’ve ever heard.”と卓は言った。)は日本の大ファンであることが判明した。だから、日本人にアイタカッタと口走ってしまったのだ。まだ二十歳だというのに、すでにもう三度も日本旅行をしているらしい。そういう日本大好き人間は世界じゅうにいる。そういう人たちは日本人と知り合いになることを渇望している。パーミンダもその一人だった。シンガポール国立大学から帰宅途中のパーミンダはその日、運命の出会いをしたのだった。もっとも、女性経験に乏しい卓には彼女の心うちはまだ知りようもなかったけれども。
 パーミンダが連れて行ってくれたレストランは、どんなガイドブックにも載っている有名なインド料理店『マハラジャ』だった。ミシュランガイドにも取り上げられている名店だ。シンガポールどころか、東南アジア全域でも最高峰にあるインド料理レストランだ。こんな高級店に気軽に来るとは、パーミンダはかなり裕福な暮らしをしているようだ。日本に三回も旅行に行っているくらいだ。最高級レストランにもまったく物怖じもしていない。
 三ツ星レストランのマハラジャに予約もなしに入ったというのに、給仕長が恭しくパーミンダに挨拶をして豪華な個室へと案内してくれた。ふらりと予約なしに訪れて、個室で食事ができるなんて一体どういうことだ。彼女はマハラジャの重要な常連客であるに違いない。
“Let me order something really delicious and special for a Japanese gentleman who is a big fan of Indian cuisine.”(インド料理ファンの日本人紳士のために、特別においしいものを注文するわね)
 そう宣言してパーミンダはかなりの数の料理を注文した。そして、料理が次々にテーブルに並べられると、魅惑的な瞳を満足げに輝かせた。その一方で卓の顔はこわばっていた。明らかに値段が張る料理ばかりがずらりと並べられていた。本場のタンドリーチキンが食欲をかきたてながらも、懐具合を心配させた。
 それでも、卓はにこやかにパーミンダと極上の果実酒で乾杯をして、豪華な夕食を口に運んだ。実に楽しい夜だった。彼女は花も恥らうドラウパディー、料理は贅を尽くした御馳走ばかり。最高の女性と最高のレストランで最高の食事をしているのだ。
 すると、卓たちの個室にターバンを巻いた恰幅のいいインド紳士が入ってきた。丸々と太った体であっても、眼光鋭い様子にただものではない雰囲気があった。
“I am Singh, the owner of this restaurant. Are you enjoying your dinner?”(私はここのオーナーのシングです。お食事を楽しまれていますか?)
 ターバンの紳士はこのレストランの経営者だった。
“Yes, certainly I am. I’ve never had such delicious food as this.”(ええ、もちろんです。これほどおいしい料理をいただいたのは初めてです。)
 そう言うと、すぐにパーミンダが口をはさんだ。
“Suguru eats a lot like a horse. His appetite makes me happy as a clam.”(スグルったら、すっごくたくさん食べるの。その食欲に、私も超ハッピー。)
 おいおい、なんて馴れ馴れしい話し方をするんだ。マハラジャのオーナーなら、シンガポールでは著名人のはずだ。どうしてそんなタメぐちをたたくんだ。君には礼儀作法が備わっていないのか。卓は目だけでパーミンダを叱責した
“Oh, is that correct?”(そうですか?)
オーナーの口調はあくまでも冷静で丁寧だ。
“I hope you will enjoy your dinner until the very end, with my daughter.”(それでは最後まで食事を楽しんでいってください、私の娘と。)
“Thanks, dad.”(ありがとうね、パパ。)

 人生は何が起こるかわからない。「こんにちは。私は日本人です」から始まった出会いが、卓の人生を大きく変えてしまった。日本が大好きという二十歳のインド系女性、パーミンダと結婚することになったのだ。高級レストラン経営者が目に入れても痛くないほど可愛がっている一人娘だ。なんという冒険に満ちた人生に足を踏み入れたのだろう。まさにアルジュナではないか。
 入社するはずだった東京の会社にはついに一日も出勤することなく辞表を提出して、卓はシンガポールに居を構えた。もちろん、妻の実家が広々とした高級マンションを用意してくれた。これから素晴らしい人生が待っているはずだ。ドラウパディーのような妻がいて、最高級のタンドリーチキンを毎日でも食べられるのだ。
 ただ、結婚するにあたって、パーミンダの父親は、卓に二つのことを約束させた。その約束を果たさなかった場合はただちに娘と別れさせると凄みのある声で脅すように言った。
 ひとつ、レストラン『マハラジャ』の経営を手伝うこと。そして、将来は卓が店を引き継ぐこと。脅されなくても、喜んで引き受けよう。これから真面目に一生懸命に経営学を学ぶつもりだ。勉強ならまかせておけ、だ。それに愛しい妻は父親よりも夫の味方についてくれる。それだけで百人力だ。卓は空に舞い上がるような高揚した気持ちでいた。
 結婚への二つ目の条件は、シク教に改宗し、頭には常にターバンを巻いていることだった。それに関しては、卓には何も問題はなかった。今では、卓は朝食を食べると時間をかけてターバンを巻き、仕事が終わり家に帰るまで外さないことにしている。それがシク教徒の務めというものだ。
 この熱帯の暑い国で四六時じゅう分厚い帽子を被っているようなものだけれど、それくらいは我慢しないといけない。なにしろ、世に並ぶ者のない女性ドラウパディーのパーミンダと一生かけても使い切れないほどの膨大な富を手に入れたのだから。
 ただ、ターバンに関しては、妻の側に大きな不満があった。ターバンを被った卓の姿をパーミンダがとことん嫌っているのだ。
“You are anything but Japanese. I got married to my beloved Japanese, but you’ve been losing your Japaneseness. Try to be a 100% Nippon-jin at least when you are at home. If you don’t, I’ve got to say goodbye to you. Oh, I have an idea. Why don’t you wear Yukata or Judo uniform while you’re home? That’s really Japanese and I certainly love it.”(まるで日本人らしくない。せっかく大好きな日本人と結婚したのに、あなたはどんどん日本人らしさを失っていく。せめて家にいる時くらいは百パーセントのニッポンジンでいるように努力して。それができなかったら別れてしまうから。そうだ、家では浴衣か柔道着を着てちょうだい。日本的で最高だわ。)
 卓はターバンを巻いた敬虔なシク教徒の日本人として、緊張感のある毎日を送っている。おそらく東京に暮らしていては、これだけ刺激のある日々を送れなかっただろう。毎日の食事すら刺激の強いスパイスてんこ盛りだ。朝昼晩の三食とも辛いカレー(パーミンダによると、まったく違う料理らしいが、カレー初心者の卓には区別がつかない。何から何まで全部カレーだ)を卓は文句も言わず食べ続けた。それは卓にとって苦行でも何でもなかった。耐えられないほどの退屈な東京でのサラリーマン人生を思えば、食事の単調さなど何でもなかった。自分はドラウパディーとマハラジャを手に入れたのだ。
ただ、この二つのバランスを取るのがとても難しかった。卓がパンジャーブ語を話すようになると、ますますパーミンダの父親であるシング氏に後継者として気に入られた。そして、出張研修として頻繁に本場インドを訪れるようになると、卓はさらにインド人のようになっていき、パーミンダに嫌われていった。
 パーミンダがついに耐えられなくなり、日本で暮らしたいと言い出し、シンガポール中を騒がせる「マハラジャ父娘の内紛」が勃発するのだが、それはまた別の話である。
記:英語科 佐々木晋